30年以上前の餅つきの思い出

雑談

今年、平成から令和へと改元されました。

昭和生まれは平成も飛び越えてますます、オジさんになりました。

令和生まれの子たちにいずれ、おじいちゃんと呼ばれるようになんでしょうね。

だがどの時代でも年末年始というものは、心が沸き立つ楽しいものなのは変わりません。そして子ども時代の昭和末期〜平成前期の年末年始は今の私にとっても、懐かしく楽しいものでした。

この投稿では、子どもの頃楽しみだった親戚総出の餅つきの思い出を振り返ってみたいと思います。

祖父の家に、「全員集合!」

盆と正月には、父方の祖父の家に叔父叔母、従兄弟、祖父の義弟家族、そして私の家族が集まるのが恒例でした。

近所に住んでる従兄弟まで含めると総勢20人弱。大人は一番奥の居間で酒盛りに興じ、子どもたちは玄関を上がってすぐ左手にある客間にたむろして、コタツでミカンや落花生をつまみながらトランプやカルタ、ウノなんかを楽しんでいました。

私は長男坊で、上に兄や姉はいませんでした。だからイトコのお兄ちゃん、お姉ちゃんに弟的ポジションで甘えられる盆暮れは、とにかく飛んで行きたいくらい楽しいイベントでした。

年末の「餅つき」

特に年末は、みんなでワイワイと餅つきをするのが定番で、このお餅をお正月に食べるわけです。

この餅つきは前日から、もち米をよーく水に浸すことから始まります。

そして、翌朝朝の2時には、親達が起床。

大人勢は母屋の前に残っていた旧母屋のかまどに薪で火を起こし、お湯を沸かしてセイロでもち米を蒸し始めるわけです。

そして、朝の5時ごろ…我々ちびっ子どもが起床し、白い息を吐きながら作業に加わります。

やがてセイロから蒸しあがったもち米をでっかいアルミのボウルに移し、15〜20メートル離れたプレハブ小屋、通称「漬物工場」に運び込みます。

漬物小屋は、コンクリート打ちっぱなしの床で、前室と奥の間のふた部屋の構造になっていました。

前室には、蒸しあがったもち米をすりつぶすために電動の「製麺機」(パスタマシーンみたいなものではなく、すりつぶしたものを押し出す構造)にかけられます。

そうすると、もち米がすりつぶされてうにゅ〜って出てくる。

これを木べらでこそぎ落としてボウルに受け、奥の部屋へ。

奥には臼と杵がスタンバイ。ウチの父親を含めた男衆が杵を、

祖母や大叔母を先頭にした女衆が、臼の餅を手水をつけて捏ねる役を担当するわけです。

ペッタン、ペッタンと餅をつくうちに夜が明けてきて、湯気と白い息を朝日が黄金色に染めていくのがとてもキレイだったのを記憶しています。

子供心に、非日常の楽しい作業でテンションを上げるのに充分な光景でした。

そうやって突き上がったお餅はこれまた前日に用意していたビニール袋に入れて広げていきます。

ここで初めて、ちびっ子軍団である我々の出番となります。

つきたてのお餅は柔らかくてよく伸びる。

そして袋には千枚通しでアナが空けてあるので穴から空気が抜けて平らな餅シートみたいなあんばいになります。

これを木箱に一枚、一枚と載せていきます。

その一方、女衆はひと口サイズの餅に前もって炊いておいたあんこ玉を包む作業も始まります。大人達は「あんぴん」と呼んでいたものです。大福と違い冷えたら固くなるので、焼いて食べたりしたものです。

その一方で手先の器用なウチの親父がミニサイズの鏡餅を作ります。そうやってそれぞれの家用ののし餅、あんぴん、鏡餅を分業体制で作っていきます。

作業は後片付けも含めて朝の10時ごろにはあらかた終了。コレでお正月のお餅の準備は万全!というわけです。

この行事は祖父が健在の時は続いていたのですが、私が19の時に祖父が他界し、その後は自然消滅となりました。

何より子どもだった我々が大人になり、働き盛りだった親世代がシニア世代に入ってバラバラになってしまったのが大きかったと思います。

とはいえ、あの時の身内でお祭り騒ぎしながら餅をついた思い出は、今でも夢に見るほどなので、ちょっとココで披露してみようと思いました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。この記事が面白かったら下のボタンやはてなブックマークをポチっとしていただくと励みになります。
ブログランキング・にほんブログ村へ


コメント

タイトルとURLをコピーしました