鈴木貫太郎記念館、再訪。

歴史

1日フリーだったので、野田市関宿の「鈴木貫太郎記念館」へ3度目の訪問をしました。

今日は12月8日です。77年前に日本がアメリカ、イギリスとの開戦に踏み切りました。そして、4年間の戦争の末、ポツダム宣言を受け入れ戦争はおわりました。

その日本が終戦に踏み切る大仕事を成し遂げたのが、鈴木貫太郎総理大臣でした。

鈴木貫太郎

鈴木貫太郎をザックリと説明します。

私は、以前から半藤一利さんの「聖断」を読んで、鈴木貫太郎という方に大変興味を持っていました。

海軍で日清、日露の両戦役を戦い抜き、海軍軍令部長という、海軍のトップまで上り詰めました。

その後、昭和天皇たっての希望で降格人事だった天皇の侍従長を務め、天皇の戦争不拡大の意を身を挺して示しました。

しかし、陸軍内の一部から恨まれて2・26事件で襲撃されます。

この時は一命を取り留めたものの、侍従長を辞職します。

時は流れ、太平洋戦争末期の昭和20年に天皇の意を受け当時77歳の高齢で内閣総理大臣に就任。

彼は昭和天皇と二人三脚で、タイミングを捉えて日本を終戦に導くことに成功しました。

昭和天皇も後に「私と肝胆相照らした鈴木だったからこそ、あの事が出来たのだ」と後に話しています。

彼は晩年、故郷の関宿に戻り地元の農業振興に尽力します。そして昭和23年に逝去。

そして、昭和38(1963)年に彼にまつわる様々な資料を集め、自宅跡に建てられたのが、この「鈴木貫太郎記念館」なのです。

鈴木貫太郎記念館の見どころ

今回、お邪魔して気がついたのは、受付の所に「昭和天皇物語」を館内で貸し出しされていた事です。たしかに昭和天皇の養育係は、鈴木貫太郎夫人の(旧姓足立)たかさんですからね。

館内は撮影禁止になっているので、お写真はお見せ出来ないのが残念ですが、迪宮と呼ばれていた頃の子供服と、たかが養育係のころの「うちき」も展示されています。

子供服はほつれを修繕した後があったりしてわんぱく盛りの昭和天皇を今に伝えているようです。

そして今回初めて職員の方から、昭和40年に録音したという「鈴木たかのインタビュー」の一部(2・26事件の部分)を見せてもらいました。

これは、地元で鈴木家と懇意にされていた方が、当時のオープンリールテープで録音したものに、字幕を付けたものです。

同館にあるのは、事件前日から当日の様子をこと細かく説明したもので、鈴木貫太郎が寝間着(パジャマ)姿で対応したことや、数日前に刀を片付けてしまったので、丸腰だったことなど細かなことまで端折らずに聞けます。

そして、ここに来たらぜひ手に入れたいものは「貫太郎翁の思い出」と題された小冊子です。

これは、地元の方々の「鈴木貫太郎さんの思い出」を集めて編さんされたもので、地元の古老が在りし日の彼を懐かしんでいる様子から、いかに彼が地元関宿の人々から慕われていたかがよく分かります。

あと、心を打たれたのは、皇后(香淳皇后)から贈られた食器。その箱の蓋の裏側にこのような文章が書かれていたことです。

皇后様御下賜 終戦の際総理官邸戦火にあい八月十五日暴徒に私邸を焼かれ無一物の折賜う何物にもかへがたき有難いものなり

そうなんです。「日本の一番長い日」では描かれませんでしたが、終戦の当日、彼は自宅を焼かれ、命まで取られかねないという恐ろしい目に遭いました。

その後も各地を転々として、関宿に落ち着くまでご苦労を重ねられていたのです。

自分のために力を尽くしてくれたと、お見舞いの品を送ってくれた皇室と、苦難の日々をともに戦いながら終生尊敬の念が変わらなかった老臣との心の通い合いに、グッときました。

あと、昭和天皇記念館にも展示されている白川一郎画伯の「御前会議」「最後の御前会議」は、関宿にあるこちらの絵がオリジナルです。

さて、30分ほどかけて記念館を見学後に、鈴木貫太郎さんのお墓参りに行きました。

お墓は、記念館からほど近い、實相寺にあります。

鈴木貫太郎、たか夫妻が眠るお墓。霊園を入って突き当たり右手にあります

右側には、戒名の「大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士」とあります。生前彼が自分で考えた戒名だそうです。

彼が死の直前に残した「永遠の平和」という言葉をかみしめ、「ありがとうございます」という感謝の念を込めて、お祈りしました。

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