以前、野村克也さんの「プロ入団までの道」を投稿したら、続編希望という声も出たので、入団後から頭角を現す直前までの話も書いて行こうと思います。
後年のノムさんにも通じる「知恵を絞り、努力を重ねる」という姿勢を見ていた人が、彼に手を差し伸べて、プロ野球という舞台に送り出したのと同様に、
一軍の選手として、第一歩を踏みしめるのにも、色々な人との出会いが、若きノムさんの人生を切り開いていきます。
サイン通りに投げたら打たれる捕手
後年はリードを研究し、ピッチャーを勝たせるために知恵を絞った「頭脳派」として名をあげる野村克也さんですが、入団当初はむしろ、打撃に注目される選手でした。
同僚の皆川睦雄さんがいうには「はじめは2塁にも満足に送球できない。キャッチングもまずいから(当時の主力投手)柚木(進投手)さんがノーサインで投げて鍛えた」というほど。
口の悪い先輩は「お前らは『カベ』でとったんや」といわれることもあったそうで。カベとは、要は投球練習を受ける専門の『ブルペンキャッチャー』のこと。
カベ兼任で一軍に帯同。代打の打席にも立ったが三球三振。
しからばと、守備でキャッチャーを務めると、ノムさんが出したサイン通りに投げるとなぜか打ち込まれる。それで、ピッチャーが投げたい球のサインが出たら投げる、というピッチャー主導でやったら打たれない、といったアンバイ。
そんなこんなの一年目。でも、当時を証言するチームメイトが一様に口にするのが「アイツは朝起きるとランニング、暇さえあればと素振り。とにかく努力をしていた。必死の男だった」と。
クビは繋がるが、ファーストにコンバート
慌ただしくおわった一年目。全選手で真っ先に呼び出されたのが、ノムさん。ノムさんの顔を見るなり球団幹部は「荷物をまとめてクニに帰れ」。要は、戦力外通告である。
ここで、野村さんは「このままオメオメと故郷に帰れない。クビになるなら南海電車に飛び込む」と言い放って粘りにねばり、なんとかもう一年置いてもらえることになった。
しかし、今度は「キャッチャー失格。1塁を守れ」と言われ、ガックリ…。
1塁にはもう、バリバリのレギュラーで4番の飯田徳治選手がいる。「キャッチャーが交代近いから」とそのすき間を狙って南海に来たのに、これではまずい、と思った。
不幸中の幸いなのは「カベ」の仕事から解放されたことで、2年目の1955(昭和30)年は1軍出場もないかわりに、2軍で練習に打ち込める環境になったこと。
そこで、1年目以上に練習に打ち込むことになった。
絶対にキャッチャーに戻る!チームメイトと「秘密練習」
キャッチャー復帰のため、アマチュア時代から自信がなかった「肩」の強化が第一と考えて、2軍のこれまたキャッチャーだった成松春雄さんに声をかけて、遠投を繰り返した。
肩の強さをあげるトレーニングなんて、どこにも書いていないから、遠投がいいだろうという単純な理由。夕方のグラウンドで成松さんをパートナーに「秘密練習」を繰り返した。
1日、2日じゃ成果は出るはずもなく、どんなに頑張っても同じくらいしか飛ばない。それでも成松さんはノムさんに付き合ってくれた。
その間も、体の鍛錬を欠かさない。近くのテニスコートの前を通ると軟式テニスのボールが落ちていたから毎日毎日、飽きるほど握り、砂を詰めた一升瓶を振り回す。
当時売り出し中の同期、宅和本司も「野村は一升瓶が恋人みたいだな」と呆れてた。マメができるとノルマを達成したと言わんばかりに、カレンダーを赤く塗りつぶす。
そして、秘密練習3か月目。ノムさんの遠投が伸びだした。ノムさんと一緒に成松さんも、やったやった!と大喜び。
「見ろ、これがプロの手だ」
バットもひたすら素振りを繰り返した。他の奴は遊びに出かけても、一人残って黙々と素振りを繰り返す姿をじっと見ていたのが松本勇2軍監督。
ある日、2軍メンバーを集めて「お前ら、手を広げてみろ」。
ノムさんの番になった。毎日素振りを繰り返した手はマメができては潰れ、ゴツゴツとした指になっていた。
「お前ら、よく見ておけ。野村の手がプロの手だ」と松本監督に言われて、大いに励まされたという。
そして、もうひとつ。ノムさんは遠くに飛ばしたくてグリップが細いバットを使っていたが、たまたまお下がりで回って来たグリップが太いバットを「もったいないから」と使ってみたら
これがジャストフィット。今までとは比較にならないくらいボールが飛ぶ。
…この年、2軍で3割をマーク。その頃には秘密特訓の成果も大分出てきたので、シーズン終わりにキャッチャー再転向を申し出た。
いざ、2塁にボールを投げると以前とは全然違うボールに松本監督もビックリ。「肩が治ったんか?」とひと言。ここで初めて、キャッチャーのイロハを手とり足取り教えてもらえることになった。
またもクビ…だと思ったら
やっと「教えがいのある」存在まで這い上がったノムさん。
とはいえ、実は「この年野村がクビ寸前だった」と証言する人物がいる。それは当時ショートだった森下聖鎮さんが「球団事務所に行ったとき、野村をクビにする手紙をみた」というし
成松さんの話でも、プロに見切りをつけてノンプロへいこう、という話も出ていたという。
ただ、これまでの努力の甲斐があって、鶴岡一人一軍監督の前でバカスカ打ってアピールする機会に恵まれ、さらに鶴岡監督に「翌年予定されていたハワイキャンプにキャッチャーを連れて行きたい」と相談され、松本2軍監督は「なら、野村を連れて行くといい」と即答。
クビ宣告の手紙の発送一日前に、ハワイキャンプメンバーにノムさんの名前が滑り込んで、この時もクビを免れることになった。
ハワイキャンプでライバルが続々と脱落
このハワイキャンプ。今のプロ野球だと海外でキャンプを張るというのとは意味が違って、昨年のリーグ優勝のご褒美で「物見遊山」のイメージが選手にあったらしい。
したがって、レギュラークラスは海外旅行ついでに練習するという感じで夜は日系人の家に招かれて遊ぶ選手が続出。
ホークスの1軍は前年リーグ優勝をしていたものの、西鉄ライオンズがパワーを付けていたのに、こっちは世代交代がヒシヒシと感じられていた時期。
ここで、若手を抜擢したいと思っているのにみんな揃って浮かれ顔。
もう、鶴岡監督は「なにやってんだ」とイライラの頂点。鶴岡監督からすれば、キャッチャーで誰かいないか?と品定めをしたかったのに、
ノムさんをのぞくキャッチャー候補はいい気になって遊び歩いているし…そんな中でも、まぁノムさんだけは「いつも通り」練習しているので
ハワイでは、一番ノーマークだったノムさんが試合に起用されるようになった。
ここでバカスカ打ったノムさんを見て、鶴岡監督の評価が急上昇。あっという間にキャッチャーのライバルをごぼう抜きした。
キャンプを終えて、コメントを求められた鶴岡監督は「ハワイキャンプの成果?…何もなかったよ。まぁ、一人だけ良くなった選手がいる。野村だ」とコメント。
自信というものは、すごい。このひと言で奮い立ったノムさんは、2年前は手も足も出なかった一軍で129試合に出場することになる。持ち前のホームランは7本どまりだったが、ライバルの捕手はベテランで80試合の出場にとどまり、野村時代が徐々に近づいていった。
<参考図書>
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