この記事は、昭和天皇の7人のお子様方を独断と偏見でご紹介します。
私も30過ぎるまで知らなかったのですが、昭和天皇は香淳皇后との間に2男5女をもうけています。
これまで、全員をまとめてご紹介するって機会、あんまりなかったのですが
Twitterで興味ありますか?と尋ねたら「ぜひお願いします!」とのありがたいお言葉が。
そんなもんで、いっちょやってみるか!と書いてみます。
あくまで個人で読んだものを私流に解釈したものですんで、その辺はご容赦ください。
お姉ちゃんは戦後の困難も乗り切ったしっかり者ー東久邇成子さん
1925年12月6日にお生まれになった、照宮成子内親王。
学業優秀、スポーツ万能。
英語劇では主役を張るなど、女子生徒からも慕われたといいます。
しかし、ご学業は中等科(今でいえば高校)までで、
以降は結婚相手に内定していた東久邇宮盛厚王との生活を控え、花嫁修業に入ることになります。
ここで、一つポイントがあって…昔の内親王は宮家に嫁ぐのが習わしだったらしく、
明治天皇の皇女たちも皆、宮家にお輿入れしています。
万が一、天皇になる男子が絶えた時に備え
宮家は直系男子を守るための存在を常に準備していたわけです。
恋愛どころかお見合いもなく、結婚前に一度、顔を合わせただけ。
最初は夫に恋愛感情も何もなかった、という話でしたが、誠実な人柄に愛情が湧いたと語ります
…この辺は昔の結婚のあるある話であります。
戦中に結婚したため、婚儀はつつましやかなものになり、防空壕で最初の出産を経験。
玉音放送の時、涙に暮れる家族の中で「さぁ、これからですよ!」と家族を励ます気丈さも持ち合わせておられました。
戦後は東久邇宮の皇籍離脱に伴い、東久邇成子さんという一般人に
離脱に伴う莫大な税金で、家族は素寒貧な状況になるなか、内職に励んだり、
ヌートリアの養殖も手掛けるなど夫を支え、5人の子どもの母として奮闘。
雑誌『暮らしの手帖』で「やりくりの記」と題した手記を掲載。
つつましくも微笑ましい毎日を描き出した手記は大評判となり、
「天皇陛下は庶民と違って贅沢に暮らしている」と思い込んでいた一部国民の意識を変えることにもなりました。
また、NHKのお正月番組に生出演。この時は皇族方全員でテレビにくぎ付けだったとか。
ただ「これから」という時にガンに倒れ、5人のお子様を残して1961年に亡くなられます。まだ35歳の若さでした。
夫の盛厚氏は追悼文集で
…何十人という使用人にかしずかれ、何不自由なく、
銭に手を触れることさえなかった生活から、戦後新たに雇った女手を助けとして、
今日の米がなく芋を食い、来月の生活費を得るために、戦時中の結婚でこれというものもなかったが、
それを二束三文で売り払い、蔵にはただ空になったタンスの並ぶのを淋しく眺める生活が始まった…
しかし成子は少しもこれに屈せず、鶏を飼い、プラスチック加工の内職をして戦後の人生再出発のため、
薄給の私に後顧の憂いなからしめた…
と、苦労を共にした亡き妻へ、最大の感謝を送る一文を贈っています。
6か月で旅立った「上皇陛下のお姉さん」ー久宮祐子内親王
1927年9月10日に第2子としてお生まれになった久宮祐子(ひさのみや・さちこ)内親王は、
初節句直前に高熱を発し、敗血症と診断されました。
当時皇族の体は神聖なものとされ、検査の注射針を刺すこともためらわれた、
そのことが発見を遅らせてしまったといわれています
一時小康状態になるものの再び高熱を出し、1928年3月8日に亡くなります。
香淳皇后はしばらく「娘ロス」で苦しみ、同じ重さの人形を常に抱いて悲しみを癒したといいます。
また、50年後に昭和天皇は
「皇居に移ってからも子供と一緒に暮らしました。
そのひとつの例として、久宮が危篤の折、私がちょうど風邪をひいて熱を出していました。
私は病を押して久宮を見舞ったことが出来たということがあります。
こういうことができたということは、屋根の下で一緒に暮らしたからだと私は思います」
と思い出を語っています。
また、姉の成子内親王は、末妹の清宮貴子内親王が生まれた直後
「今日は久ちゃんの誕生日だ」と書き残していることからも、
短いご生涯ながら皇族方の心に生き続けた宮様だといえるかもしれません。
なぜかご不幸ばかりの生涯ー鷹司和子さん
孝宮和子内親王は1929年9月30日にご誕生されます。
この時、男の子が生まれたと誤報も流れましたが、
夭折された久宮祐子内親王と同じ9月生まれ、似た風貌の女の子の誕生に、ご家族で大変お喜びだったそうです。
どちらかというと内気な性格の方だったらしく、この後書く事情もあり、晩年目立たない形ですごされました。
そして、皇室の内親王としては初の民間に「降嫁」した宮様です。
これは1947年制定の皇室典範の規定によるものです。
したがって、和子さんもフツーの暮らしに対応できるように、と花嫁修業に励みます。
そして1950年に鷹司平通さんと結婚、皇籍を離脱することになります。
最初は写真を見せられたものの、どうも和子さんもどうしたらいいのか分からないご様子。
そこで、香淳皇后は何度も相手と交流したら?と文通やお見合いを進めます。
そんな中で、徐々に距離を縮めてのゴールインでした。
ところが、1966年に夫の平通さんが変死。
…非常に言いにくいのですが当時は「情死」「心中」とスキャンダラスに書かれてしまい、
昭和天皇も侍従を送って娘のケアに努めました。
さらに、結婚の際
「世間にはドロボーというものがいるそうだから…」と天皇陛下が諭したとおり、
ご自宅に強盗が忍び込むという事件も発生
(ドロボーはどうやらここが天皇の娘の家だと知らずに押し入って、取り調べの時頭を抱えたとか)。
あんまり気の毒だと、昭和天皇は和子さんを赤坂御用地に住めるように手配し、
以降は時折弟の皇太子一家と静養先で過ごしたり、ご公務をこなしたりする以外には、あまり表に出なかったご様子。
父親の昭和天皇がなくなられて間もなく、後を追うようにして亡くなられた
「幸薄い宮様」の印象が強い方です。
岡山でワイルド系と2人3脚ー池田厚子さん
順宮厚子(よりのみや・あつこ)内親王は1931年3月7日にご誕生しました。
内気でまじめな性格で、微笑を絶やさず、科学とバレーボールが大好きという少女が、
1951年、岡山の池田動物園を訪問します。
もちろんこれは、お見合いの一環。
園長の池田隆政さんは、備前岡山藩主の家系ですが、
事業を起こして奮闘するガッツあふれる好青年。
失礼ながら…宮様、そんな精悍な青年に「一目ぼれ」らしく、
隆政さんもメディアの取材に「好きです!」とハッキリ宣言!!
その年にはもう結婚という…以来夫婦で仕事にまい進。
厚子さんも売り場に立って働き、売店は「宮様」を一目見たいと客が殺到。
たいそう売り上げに貢献したとか…。
また、ご公務も姉の鷹司和子さんから祭祀を引き継ぎ、
黒田清子さんにバトンタッチするまで30年近く担当されました。
われらが日本の「おとうちゃん」ー上皇陛下
別の記事でも書きましたが、
ここまで女児が続いた昭和天皇、香淳皇后ご夫妻に待望の男児が誕生したのが、1933年12月23日。
言わずと知れた、今の上皇陛下です。
長じては皇太子として
昭和天皇に「東宮ちゃんに任せておけば大丈夫」と厚く信頼されて名代を勤め上げ、
父君の崩御後には天皇に践祚。
平成の30年余り、日本の象徴として勤め上げ、
皇室典範特例法のもとで、憲政史上初、皇室の歴史でも202年ぶりという「譲位」を経て、上皇陛下に。
私なんぞは日本の隅っこにいる一平民ですが、穏やかな毎日を末永く送っていただけるよう心から願っております。
学究肌の弟君ー常陸宮正仁殿下
上皇陛下の弟として、1935年11月28日にご誕生された義宮正仁殿下。
幼少期は軽い小児麻痺も経験されるなど、ややご病弱な面もあったからなのか、
長じてがんの研究を行うようになります。
昭和39年に徳川義寛侍従の姪、津軽華子さんと結婚します。
この時、侍従の家でお見合いをしたのですが、「学校のテストみたいで大変緊張した」とのこと。
学問にも秀で英語は堪能。ご公務でも、兄君を助けて海外にも足を運びご活躍されました。
現在は「年相応に」と手足の衰えを語りますが、いつまでもお元気でいてほしいお方です。
実はこの方、昭和天皇にフグを贈ってちょっとしたひと悶着を起こしています。
詳しくはこちらから。
明るい末っ子は「初物づくし」の降嫁ー島津貴子さん
清宮貴子(すがのみや・たかこ)内親王は1939年3月2日生まれ。
昭和天皇と香淳皇后の間に生まれた末っ子です。
あだなは「すがのみや・たかこ」から「おスタちゃん」。
明るく活発な宮様として国民からも愛されました。
1960年、学習院大学在学中に、島津永久さんと結婚します。
島津さんは一般人でもありますが、次男坊。「長男以外に嫁いだ」初めてのケースです。
会見の時には「私の選んだ人を見てくださって」と語り、女性が相手を選ぶという今の雰囲気にだいぶ似てきました。
そして、夫に従って海外生活を経験したり、仕事をバリバリこなすキャリアウーマンでもあり、
明るい性格でタレント活動も行うなど、これまでの宮様にない型破りな活躍を見せました。
最後に…
とまぁ、ざっくりと昭和天皇の7人のお子様をご紹介してきました。
随分と乱暴な紹介だな!という方も多いかもしれませんが、
皆さまのエピソードを読んでいくと兄弟でもだいぶ性格が違ったり、
なにより時代の違いで結婚や人生にも様々な変化があることがわかりました。
皇室には今後とも、末永いご繁栄をお祈りしております。
【参考文献】
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コメント
私は今上天皇と同い年という事もあり今もどこかで意識しています。
今回こうして皇室の皆様を分かり易く紹介して頂けて益々皇室という存在に更なる親近感が湧きました。
ありがとうございました。