「ごんぎつね」の鍋の中身が分からないのは、読解力のせいか?

スポンサーリンク
スポンサーリンク

ルポライターの石井光太さんが、子どもたちの読解力の低下を嘆いている記事を読みました。

『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……石井光太が語る〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状 | 文春オンライン
少年犯罪から虐待家庭、不登校、引きこもりまで、現代の子供たちが直面する様々な問題を取材してきた石井光太氏が、教育問題の最深部に迫った『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を上梓した。いま、子供たちの〈言葉と思…

子どもの読解力が劣化している例で出されているのが、新美南吉の「ごんぎつね」のこの描写です。

十日ほどたって、ごんが、弥助(やすけ)というお百姓の家のうらをとおりかかりますと、そこの、いちじくの木のかげで、弥助の家内(かない)が、おはぐろを付けていました。

かじ屋の新兵衛(しんべえ)の家のうらをとおると、新兵衛の家内が、かみをすいていました。ごんは、「ふふん。村に何かあるんだな。」と思いました。

「なんだろう、秋祭りかな。祭りなら、たいこやふえの音がしそうなものだ。それに第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」

こんなことを考えながらやってきますと、いつのまにか、表に赤い井戸がある、兵十の家の前へ来ました。

その小さな、こわれかけた家の中には、おおぜいの人が集まっていました。よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえています。

新美南吉「ごんぎつね」より

この、「大きななべの中でぐずぐず煮えているのはなにか」を現代の子どもたちはどのように書いているか、記事ではこう書かれています。

“兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、

教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。

すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」と言い出しているんです。

“ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。”(引用元はコチラから)

これを石井さんは、

“これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。”

と嘆いているわけです。

スポンサーリンク

今の葬式は、葬祭ホールでするものという「常識」

これって、子どもたちの常識を疑うべきなのか、

私は決してそうではないと思います。

私自身の経験からすると、1997年に祖父が亡くなった時に、こういうお葬式を経験しているから通夜振る舞いの料理かなと、察しが付くのですが

その15年後に祖母が亡くなった時は「葬祭ホールで、仕出しの通夜振る舞いを出す」葬式がメインになっていたからです。

子どもたちはまだ経験も少ないし、万が一お葬式に行くとしても、

「腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいて、大きななべの中では、何かぐずぐずにえてい」る様子を見る機会は、ほとんどないのでは?

と感じてしまうのです。

「ごんぎつね」は100年前の作品

したがって、そういった前提知識を持たない

今の子どもが、唐突に「大きななべの中では、何かぐずぐずにえています」と

いう部分だけを読んでも、何が煮えているのかまでは察しを付けるのは難しい。

もともと、ごんぎつねという作品は1923年に書かれたもの

そのころ葬儀業者というものはないし、こうやってご近所の人が助け合いながら故人を送るのが至極当然の時代でした。

だからこそ、新美南吉もこの程度の描写で抑えたし、それで十分読者にも意図が届いたわけです。

しかし、最近は葬儀に参加するというと、お手伝いなどはむしろ稀で

葬祭ホールに喪服姿で出かけて、お香典を差し上げてご焼香をして、仕出しのお清めをいただいて帰るのが当たり前ですから

ごんぎつねの描写が通夜振る舞いのための炊き出しだと連想させるには、

それ相応のフォローが必要になるでしょう。

つまり、ここでの問題は子どもたちが、当時のお葬式の段取りを知らないことが問題であり

石井さんが嘆くような

社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。

という指摘は不適切だと思うのです。

当時の葬儀がどういうものなのか、いや教師自身が経験していないかもしれないけれど、経験しているなら亡くなった人をどうやって送っていたかを説明したうえで

鍋の中身を問うたら、答えはそんなに的外れにはならないと私は思いますよ。

そもそも、読解力の無さは今に始まる問題ではない

あと、私が言いたいのは

「偉そうに御託を並べている大の大人であっても、言葉のやり取りのできない人間はごまんといる」

という当たり前の話です。

これは、Twitterをやっていて気がついたのですが

人の記述を理解しようとせず、勝手にお門違いな所を曲解したり

人の説明を聞こうともしないで、ひたすら自分の言いたいことを言い放つだけ

という人、いっぱいいるなぁと。

それも、私よりもはるかに年上で、後期高齢者に差し掛かろうという人の中にもいるし、某朝日新聞の元記者という肩書で好き放題つぶやいている人にも

そういう傾向がある人もいるわけです。

もちろん、私も国語力は重要な能力であることは認識しているのですが、

少なくとも、ごんぎつねの葬式の描写を誤読していることを例に挙げて、

今の子どもたちの読解力ウンヌンを語るというのは、ちょっと不適切ではないかと思った次第です。

あ、ちなみに石井光太さんのルポは実に面白いです。

フォローになっていませんけど。東日本大震災の被災地を描いた『遺体』はぜひ一読をおすすめします。

最後まで読んでいただきありがとうございます。この記事が面白かったらTwitterリツイートやシェアボタンでの応援よろしくお願いいたします。

コメント

  1. 高木泰 より:

    そもそも、グループで話し合うという授業をしているのに、人格まで疑うようなことをいうのが一番の不正解ですよね

    • とーちゃん とーちゃん より:

      >高木泰さん
      そうですね。分からなければ教えればいい。
      人格を疑うのは、常識でマウント取ってるのと同じことだと思います。
      また、今の都会育ちのご両親でもこれを答えられない人、いると思いますよ。

タイトルとURLをコピーしました