上皇陛下のほっこりエピソード集

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平成時代に天皇として務めを果たした上皇陛下

ニコニコしたお姿や、被災地でみんなを慰める姿をご記憶の方が多いでしょう。

上皇陛下(Wikipediaより引用)

ここでは、割と知られていない、天皇としての功績

また、人間的なエピソードを中心に取り上げてみます。

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昭和天皇でも出来なかった仕事を成し遂げる

昭和天皇は戦後、自身の名のもとに始められた戦争の傷跡を癒し、国際社会に平和国家日本として

再び立ち上がるために全力を尽くしました。

しかし、それでも本人ではできなかったことがあります。

国内では沖縄訪問です。

これは、返還後に何度かチャンスがあったものの、上皇陛下が皇太子時代に経験した『ひめゆりの塔事件』のために、昭和天皇の訪問が難しくなり、

それも解決した時には、昭和天皇の体は病魔に侵されていたため、無念の思いで諦めた経緯があります。

また、海外に目を向ければ、オランダです。

これは、太平洋戦争の時に、彼らが支配していたインドネシアなどの植民地を奪い取り

挙句それがキッカケで独立を許してしまった経緯や

捕虜の虐待や慰安婦問題(オランダ人慰安婦は少数ながら強制連行の事実があったため、もっと根が深かった)などもあります。

昭和天皇は1971(昭和46)年にオランダを訪問したのですが、車列に魔法瓶が投げつけられるなど、対日関係がずーーーっと悪かったのです。

そのため、昭和天皇の大喪の礼でも、オランダは王族の出席を「お断り」を入れて見送り

外務大臣を送るという、そうとう「格を下げた」対応をし

1991年に同国のベアトリクス女王訪日の際、答礼のスピーチで抑留されたオランダの兵士や民間人の具体的数字を挙げ、

「これは日本ではあまり知られていない歴史の1章です。多数の同胞が命を失い、帰国できた者も、その経験は生涯、傷跡となって残っています。

私たちはあの戦争の記憶を避けて通るべきでないと思います」

と厳しい内容だったのも、

オランダ国内の反発に配慮せざるを得なかった、ということでした。

そういった課題を、両政府や皇室、オランダ王室が一つ一つ処理しながら両国は和解への道を歩んできたのです。

そして、それを決定づけたのは、2000年のオランダ訪問でした。

この時天皇皇后両陛下は、王宮の向かいにある戦没者慰霊塔に足を運び

1分間もの長い黙とうをささげました。

日本の天皇が代を重ねても「過去の不幸を忘れない」ことをハッキリと示したわけです。

さらに、その後に行われた宮中晩さん会では

天皇は江戸時代、開国後のオランダとの交流に触れたあと、

「両国が先の大戦において戦火を交えることとなったことは、誠に悲しむべきことでありました。

この戦争によって、さまざまな形で多くの犠牲者が生じ、今なお戦争の傷を負い続けている人々のあることに、深い心の痛みを覚えます」

「戦争による心の痛みを持ちつつ、両国の将来に心を寄せておられる貴国の人々のあることを私どもはこれからも決して忘れることはありません」

と答礼。

昭和天皇でも決着を付けられなかったオランダとの確執に、ようやく終止符を打つことができたわけです。

タイにティラピアを贈る

上皇陛下は天皇に即位する前から、生物学(主にハゼ)の研究を重ねられました。

そして、タイ王国がたんぱく源の確保に苦労していることを知り、

ナイル川に生息するティラピアを贈ります。

これがタイの気候にバッチリ合い、上皇陛下の名前から一文字取った「プラーニン」(仁魚)と呼ばれるようになって養殖が盛んになりました。

今ではタイの人々の食生活に欠かせない魚となっています。

ブルーギルの大繁殖に心を傷める

同じように食糧難だった日本にも、陛下はある魚を日本に移入させました。

それは、ブルーギル。

アメリカ大陸では40センチ近くの大きさに育ち、食味もいいことから勧め

「皇太子殿下が勧めてくれたプリンスフィッシュだ」と養殖が進みました。

しかし日本の気候では多くの場合20センチほどにしか育たず、思ったような歩留まりが得られない一方で

養殖所から逃げた魚が大繁殖。在来種を圧迫してしまうことになりました。

今は特定外来生物などへの厳しい目を向けられることが多いですが、

これは上皇陛下がウッカリしたというより、外来種を扱うことが生物のプロである学者でも

予測ができない、難しいものであったかを示しています。

陛下は天皇即位後の2007年の第27回全国豊かな海づくり大会において

「ブルーギルは50年近く前、私がアメリカから持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」

との言葉を寄せておられます。

お父ちゃんはここにおりますよ

昭和天皇は、戦前の立憲君主の流れで、人をビシッとさせる雰囲気を持っておられましたが

「国民統合の象徴」としての天皇を模索された上皇陛下は、膝をついて被災地の人々に接するなど、より身近な皇室の在り方を模索しました。

そんなことも、影響があったのか…登山を楽しまれていた天皇時代の上皇陛下ご一家に

取材陣がご一緒していた時の話です。

記者がウッカリ、上皇陛下を見失い「お父ちゃんはどこ?」と口を滑らせました。

子どもの時に先生を「お母さん」と言い間違えるようなもんでしょうが、それでも天皇陛下に恐れ多いことだと当人は冷や汗をかいていたわけです

そこにひょいと現れた天皇陛下(当時)は

「お父ちゃんはここにおりますよ」とニッコリ。

これで「本人公認。お構いなし」となってご本人の発言で一気に場が和んだそうです。

テンジクネズミ

国民に対してはあくまで慈愛の塊のような上皇陛下ですが、子育ては案外手厳しい。

今の秋篠宮殿下が、礼宮殿下と呼ばれていたころ…

飼っていたテンジクネズミを冬の池に「泳げるかな」と入れてみたら、テンジクネズミはショックで死んでしまった。

そこへ通りかかった当時皇太子の上皇陛下

次男の礼宮に「何をしているのだ?」と尋ねた。

「(池で)泳がせたら死んじゃった」と答えると、皇太子殿下は次男を冬の池に

問答無用で放り込んでしまった。

後に池に放り込まれた時のことを「私がテンジクネズミのようになってしまった」と秋篠宮殿下が苦笑いし

厳しくも、あらゆる命を慈しまなければいけないという愛のムチだったと振り返っています。

【参考図書】

 

 

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この記事を書いたのはこんな人です
とーちゃん

活字中毒歴30年超。どんなことでも面白いと思ったらやっちゃう性格でそれが今の仕事でも結構活きています。
年間50冊くらいの読書に加え今ハマっていることは中学校英語のやり直しとブログ執筆。
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