戦後の大事件をくぐり抜けた「事件を呼ぶ男」~佐々淳行

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日本のスゴイ人列伝も、なんだかんだで私自身が書きやすいらしく、

第6弾を数えることになりました。

今回は警察官僚として昭和の重大事件解決に尽力した佐々淳行さん(1930~2018)を紹介します。

この人のスゴイところ…それは、担当した事件が雄弁に物語るかと思います。

警察官僚としては

東大安田講堂事件(1969年)

三島由紀夫事件(1970年)

あさま山荘事件(1973年)

ひめゆりの塔事件(1975年)

等々、数々の大事件の際に警備行動で出動してます。いわば「戦後日本で一番、修羅場をくぐってきた」人です。

また、後に中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保安室長に就任。昭和天皇の大喪の礼警備を無事つつがなく指揮し、退官。

その後も、ペルー日本国大使館人質事件や、オウム真理教事件、東日本大震災などでも様々なコメントを寄せています。

その経歴から、危機をいかにして乗り切るかという「危機管理」という言葉の生みの親でもあり、執筆を重ね、多くの本を世に送り出しました。

では、数多くの事件から、彼の凄腕っぷりを紹介しましょう

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1.東大安田講堂事件(1969年)

学生運動が華やかなりし1969年に、大学の自治などを求めた過激派の学生が、東大のシンボル、安田講堂に立てこもった事件です。

実はこの事件、東大生はほとんど参加せず、他大からの「外人部隊」がほとんどだったのですが、この攻防で学生側は火炎瓶、硫酸瓶、舗装用の石が飛び、ガソリンを下にまいて火をつけるなどの「抵抗」を見せました。

一方、警察側は「汝殺すなかれ」で放水や、アメリカ仕込みの催涙ガスで応戦。上から落ちてくる凶器に対しては、ジュラルミンの盾を2枚重ねにして防御。

実は、この時鉄球で安田講堂を吹っ飛ばすアイデアを実行する予定でしたが、

上層部から「安田講堂は文化財なのでよせ!」とストップがかかりました。

結果人力でバリケードを突破し、平定することができたのですが、のちに佐々さん本人が振り返るとおり「よく死者が出なかった」と思います。

ちなみにこの事件の際、立てこもった学生側の「弁当運び」をしていたのが、後に内閣官房長官を務める故・仙谷由人さんというのは、不思議なものを感じます。

2.あさま山荘事件(1973年)

安田講堂事件から数年後、学生運動は全般的に下火になりつつある一方で、

一部の運動が先鋭化、過激化します。

特に、群馬県の各地にアジトを作っていた「連合赤軍」は散弾銃やライフル、パイプ爆弾などで武装した極めて危険な勢力でした。

赤軍派は群馬県で山狩りに遭い、長野県軽井沢町に逃亡、

河合楽器の保養寮にである「あさま山荘」に人質を取って立てこもりました。

警察には、先ほども言うように「汝殺すなかれ」の鉄則があり、

拳銃発砲の許可も中々おりません。

一方で向こうは散弾銃やライフルを撃ちまくり、殺すつもりの大暴れをします。

結果、1名の一般人、2名の機動隊員が死亡します。

外に向けて撃ってくる側に防戦一方の警察も、ついに拳銃射撃の許可が下りましたが

「適時適切に状況を判断し、適時適切に拳銃使用を検討せよ」という、

何をすればいいのか分からない条件が付いてしまいます。

そこで、佐々さんは部下(オリンピックのピストル競技のメダリスト)に窓からのぞく連合赤軍側の銃身に向けて、威嚇射撃を命じます。

これが大成功。銃の乱射は沈黙し、以降殉職者は出ずに済みました。

また、ここで犯人を生け捕りにし、人質を無事救出できたのですが、ここで逮捕された犯人が、仲間をリンチにかけて殺害した事実が明るみに出ます。

これによって、世間の目は一気に過激派に対して冷めた姿勢を取るようになりました。

(と、いうことはです。それまではかなり犯人側に共感する人も多かった、ということです)

佐々さんは「もしあの時犯人を射殺していたら、警察は山の中で眠っているリンチの犠牲者を血眼になって探していただろう」と述懐しています。

【関連記事】

コロナ禍の今でも使えるノウハウ満載!『連合赤軍あさま山荘事件』

3.ひめゆりの塔事件(1975年)

沖縄県に昭和天皇の名代として、当時の皇太子殿下ご夫妻が訪問された時、

さらに少数で過激化した過激派が、火炎瓶闘争を予告しました。

これに対し、佐々さんは過激派が身を隠すことが出来る洞窟の数から、本土からの応援人数を5千人と見積もりましたが、「大げさだ」「過剰警備だ」と袋叩き。結局、半数の2千4百人だけがあてがわれることになりました。

これでは、洞窟の調査や過激派のチェックも圧倒的に足りません。

佐々さんは覚悟を決め、直接の上司だった福田一(自治大臣兼国家公安委員長)さんに

「今回の戦いは湊川の戦い(負け戦)です。火炎瓶、必ずやられます。後は運不運の問題です」と伝えました。

悪い予感が的中し皇太子殿下ご夫妻に火炎瓶が飛びました。

幸い、お二人から数メートルの位置で火炎瓶は炎上、ご無事だったものの、当然周囲は大騒ぎ。

当時の三木武夫総理大臣も、マスコミも、これまでの「過剰警備」「やりすぎ」と非難していたのをコロッと忘れたかのように「警備の手抜かりだ」と非難しました。

佐々さんは「準備はどこまでも地獄絵図を描いて万全を尽くし、ことが起こったら『まだ大丈夫』と意図的に楽観して対処する」ことを生前説いていましたが、

「準備が楽観視で甘くなり、ことが起こってから大騒ぎ」という真逆な対応として記憶されるべき事柄ではないか、と思います。

地獄絵図を予測し、それより良かったらホッとする心構え

もっとも、当時の上司である福田一さんは、この一報を受けて

「キミは初めから火炎瓶飛ぶって言ってたよな。皇太子殿下ご夫妻がご安泰でホント良かった」と返したそうです。

修羅場においては「0点が満点である」と佐々さんは語っていました。

このときもし、警備人数を甘く見積もることなく予定の人数を与えられたら、火炎瓶を投げた過激派を事前に確保し、抑えられたかもしれない。

しかし、結果としては火炎瓶は飛ぶことなく「過剰警備」のそしりは残ることになる。

しかし、それを怖がってては彼の指揮する現場は上手くさばけない、潜在的な危機を回避するために全力を尽くすべき、と言っているんだと思います。

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ぜひ読んでほしい一冊『佐々警部補パトロール日記』

参考図書

 

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