今朝、夢うつつの中で祖父の事を思い出しました
「コロナで、ずっと墓参りに行けてないな…そうだ今日行こう!」
…そんなわけで、相棒初代ミラジーノに乗り、群馬県安中市のお墓参りを済ませたのが朝の9時。
親戚の家にいきなり乗り込んでいっても、迷惑になるだけなんで
ずっと気になりながら、マトモに出かけたことのなかった碓氷関所跡に足を運んだ次第です。
碓氷の関所とは?
碓氷の関所とは、上野の国(今の群馬県)の松井田宿と坂本宿の間にあった関所で
五街道の一つ、中山道の通行を取り締まる関所でした。
1623(元和9)年3月に現代の関所跡のそばに移転。
関東の治安を脅かす鉄砲(入り鉄砲)と、江戸に住む大名の人質が逃げ出す(出女)を特に厳しく取り締まっていた事でも知られています。
構造は中山道を挟んで一段高い場所にある番屋跡と向かいの長屋がぐるりと取り囲む構造になっており
明け6つから暮れ6つまで(正確な時刻は季節によって変わるが、要は「明るい間」)門が開かれており
道を通る人は通行手形(偉い人の身元保証書みたいなもの)を持たないと通ることができませんでした。
明治時代に関は廃止され、当時の面影を残すのは、高台の番屋跡に残る、
東門を昭和34年に復元したものだけですが、群馬県の指定史跡にされています。
現在の様子は…
現在はもちろん、旧道に門が残っているという事はなく、
フツーに通れます。
電車だと、JR東日本の信越本線の終点、横川駅を降りて前の道を突き当りまで進み
そこを左折して8分ほど歩けば着く場所にあります。
で、右手にある石段を登ると、「東門」が再現されているのですが
なぜか、コレが逆側(坂本宿方面)を向いて建ててあるのは、ご愛敬というべきなんでしょうか。
そして、この門の向こうの平屋建ては…特に何かがあるということもない、集会所か倉庫のようです。
人家ではないのは、窓ガラスに「碓氷関 400周年 2023」と貼られていることからも分かりますね。
で、この門の向かい側にちょっとした資料館があり、
新聞記事や、通行手形のコピーや資料などが展示されているのですが…
この中で特に面白いのは、「関所破り」の資料でした。
「関所破り」…そのロマンあふれ…ない、実態。
関所破りというと、なんか、ルパン3世みたいな軽業師が、
こーんな感じで東門と西門の間を駆け抜けて…なんてことを考えていました。
あるいは、花の慶次のような、いくさ人が突っ込んで門番を蹴散らし
とこんな感じ?
ところが、当然実態は違う。大違い。
そもそも、住み込みがいて固く門を閉ざしているところへ「わざわざ」忍び込んで正面突破なんかするわけない!
しかも、江戸時代ですよ!パクス・トクガワーナです。
いくさ人なんか、いやしません。
実際の関所破りは生活道路か山道を歩く、がそこには「動く監視カメラ」の目が…
…で、どうするかというと
街道を外れた道を歩く、コレが定番。
上の地図でいうと、真ん中の赤い線が中山道。
で、その周りに9つの村落があり、そこに人が住んでて、生活道路があります。
そして、山に入って越える…というのが、関所破りの定石だったらしいのです。
蛇の道は蛇、と申しますが、
昔連合赤軍が群馬県から長野県を山越えして、あさま山荘事件を起こしたことを考えれば、出来なくもなさそう。
だけど、この村落というのが…実は最強のセキュリティシステムだったりします。
田舎に縁のない人には中々実感がわかないかもしれないんですが
当時の農村は、一生を顔見知りだけに会って過ごす人生がほとんどで
要は「住人とそれ以外」は一発で判別がつくわけです。
今でも、私は祖父母(そして未来には私も入居予定)の墓参りをする際に、第一村人(?)と会うと
コッチの顔をシゲシゲと見て「はて、どちらさんでしょうか?」と尋ねられます。
口調の向こうに「おめぇどっから来た??」という疑いの眼差しがビンビン伝わってくる。
私なんかは身元バッチリなんで、祖父母や両親の名前を告げたり、盆暮れにきたときの思い出なんかを話せば
なんのお咎めもなく無罪放免ですが、
身元を明かさない人間が2,3日ウロチョロしたら即、回覧板が回ります(半分ウソ)。
そんなわけですし、ましてや江戸時代ですから
普段からお上より「不審人物あらば連絡せよ!報奨金も出す!」と言われていますから
見慣れない人間が生活道路をコソコソしてたら役人へ「恐れながら」と即座に情報が飛ぶ、ってものです。
関所破りは一発死刑!
資料館には7件の「関所破り」の記録が展示されてますが、基本関所破りは「はりつけ」で
いったん、江戸で取り調べを受けてまた、関所のそばまで送り返されて
松井田と横川の中間点にある「磔河原(はりつけかわら)」で見せしめに処刑されるという
末路が待っています。
私、関所を見学した後、磔河原にも寄ろうと思ったのですが…
あまりに「こっち来んな!」オーラが道の奥からほとばしっていたので、「ぶらり群馬」さんの記事を読んで、遁走しました。
(この先がどうなっているか…というと、詳しくは引用元の記事をご参照ください)
ちなみに私、この碓氷川の対岸のさらに上に
母親の実家の集落があるんですが
子どもの頃、碓氷川で遊んだ記憶が一回もありません。
まぁ、対岸とはいえ川近くが刑場なら、そういう薄暗くて、気味が悪いと感じるのも仕方がないかもしれませんし
谷の川は(たとえその場が晴れていても)
急に沢の水を集めて増水する危険があるので、普段から寄り付かない場所だったとも思われます。
そして、為政者もまた、そういう場所だから安心して刑場を設置できた、とも言えなくもないかなぁと。
ちょっと怖いオチになってしまいましたが、今回はここまで。
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