昭和天皇と歩んだ皇后、香淳皇后ってどんな人?

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この記事では、昭和天皇の奥様である香淳皇后について紹介します。

どのような家に生まれ、どのような経緯を経て皇后になったのか、どんな性格だったのか、など手持ちの資料で書いていきます。

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香淳皇后の経歴をざっと紹介してみる

香淳皇后は1903(明治36)年、皇族の久邇宮家の長女として誕生しました。

つまり、生まれついての皇族。優しくしっかり者で妹の面倒をよく見る性格だったといいます。

学習院女学部在学中の1920(大正9)年に皇太子裕仁親王の妃に内定。

そして将来の皇后陛下に備えて花嫁修業のために学習院を退学し久邇宮邸内の学問所、通称お花御殿で妹や学友たちと勉強に励むことになります。

ところが、母方の島津家が色弱の体質だから結婚を辞退せよ、という話が飛び出します。特に元勲だった山県有朋が強く主張したことから、話がどんどん深刻に…

これが「宮中某重大事件」として知られているものです。

しかし、皇太子裕仁殿下の「良子でよい」の一言でこの話は決着。

その後関東大震災が発生しご婚儀は延期となり、1924(大正13)年に結婚。皇太子妃良子となります。

そして1926(大正15)年、裕仁親王が天皇に践祚され、皇太子妃は皇后になります。

以来、1989(昭和64年)に夫である昭和天皇が崩御されるまで「大波乱の時代」昭和を夫と共に歩み、

皇太后として昭和天皇よりも長生きし、2000(平成12年)に97歳で崩御されました。

、貞明皇后との仲は悪かったか?

よく言われることは、姑である貞明皇后との仲が悪かったかどうか、なのですが…

これは、あまり資料がないので、分からないというのが正直なところ。

香淳皇后の実父、久邇宮邦彦王が、皇后の外戚としてやたら出しゃばった挙句に自邸の改装費を皇室に無心したりしたので、

姑の貞明皇后の不興を買ったそうですが、嫁である良子さんのことに関してはどう思っていたかは分かりません。

wikipediaでは『貞明皇后』の欄で

皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。

との表記もあるのですが、

この「不細工」という言葉、実は貞明皇后の口癖でもあったらしい。

というのも昭和天皇の弟君、秩父宮の妃勢津子妃も言われたことがあるのです。彼女は貞明皇后に気に入られてた方で、そのことは晩年の回想記『銀のボンボニエール』にも紹介されております。

文脈からどちらかというと愛嬌を含んだ表現でもある様子でした。あらあら、ドジねぇ(笑)みたいなニュアンスです。

ですから、Wikipediaに掲載されたこのエピソードだけで二人の不仲が決定的とは言えないと私は推測しています。

まぁ、私は思うんですが…もともと貞明皇后はサッパリとした気丈な女性であり、幼少期から活発なご気性だった一方、香淳皇后はおっとりとした性格で、姑がパッと放った「不細工」発言に、とっさに対応できなかったのかもとも思えます。

香淳皇后は料理は作れたのか?

天皇皇后両陛下には、3度3度のお食事を差し上げる料理番がおりました。

では、香淳皇后は料理を作れなかったのかというと、さにあらず。

高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』では、シイタケのバター炒めを作ったとの発言があり、幼少期の皇太子(現在の上皇陛下)のために好物の豆腐料理を自分で作ったというエピソードがあります。

また、これは「料理」とはいえないですが

昭和天皇の朝食はオートミールが出されることが多かったのですが、最後にミルクと甘味を足し、天皇のお好みの味と固さに仕上げるのは皇后のお仕事だったそうです。

日本画も相当な腕前

香淳皇后は日本画を前田青邨さんに師事していました。

弟子ですから、当然作品を師匠に見ていただくわけで、入江相政侍従長が前田画伯の自宅に持っていって、講評を受けていました。

前田先生の評価は実にシンプルで、ダメなものは「ダメ」と実に素っ気ない。

でも中にはキラリと光るものもあると、先生は「ばあさんや」と奥さまを呼んで夫婦でしみじみと絵に見入る、といったあんばい。

…この「ダメ」「ばあさんや」は入江侍従長と香淳皇后の符牒にもなり

「皇后さま、『ダメ』もありましたがこの作品が『ばあさんや』になりました」

「エッ?今回の見せるのやめにしようと思ったのに、その作品が『ばあさんや』になったのねぇ(´・ω・`)」と

ノンビリやり取りをしていたそうです。

恋愛結婚ではないが…

当時の皇后は、本人の意思というよりも、家の格とか血筋が重視されていました。

『陛下、お尋ね申し上げます』という昭和天皇のインタビュー集では、「恋愛感情はなかった」と昭和天皇自身がハッキリ言っています。

しかし、この辺は同時代の結婚がだいたいそんな感じで、まぁ珍しいことではない。

ちなみに子女の結婚に際しては、長女の東久邇成子さんは、親と同じように結婚相手を決めて結婚するという形を取りました。また、東久邇という苗字が示す通り、成子さんの嫁ぎ先は東久邇宮家、つまり皇族です(戦後、東久邇宮家は皇室離脱しましたが)

しかし、その後は皇后自身が「お見合い」や「デート」を積極的に勧めるようになり

末子で、成子さんの14歳下、島津貴子さんの時は、「私の選んだ人を見て」とのご発言もあるように、個人の意思がかなり尊重されるようになったようです。

終戦を挟んでいることも、結婚の形が変わったことへ少なからず影響しているとは思います。

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昭和天皇との仲は円満だった

香淳皇后は非常におっとりとして、夫を立てるタイプの女性でした。

そうすると、昭和天皇は亭主関白?と思ってしまいますが、そんなことはなく…

新婚時代は手をつないで散歩している所を側近に見とがめられてお小言をもらったり、御用邸で滞在の時はいっしょにお風呂に入ったりしていたことを側近が証言しています。

また、中々男児が生まれず「皇后は女腹だ」と非科学的な陰口をたたかれ、側室を勧められても天皇はキッパリと断りました。

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昭和天皇の手の爪を切るのも、皇后陛下のお仕事。

侍医が「手の爪が伸びていますね?」と言われると「これは良宮(皇后)が切ることになっている」と切らないように意思表示をしたと当時の侍医が証言しています。

一方で、パーソナルスペースに関しては

御所のある吹上の森は昭和天皇の意向で、出来るだけ手を入れないようにと命じられていたそうですが、唯一の例外が香淳皇后の手入れする150坪のバラ園でした。

バラの栽培に関しては、独身時代から久邇宮邸で基本を学ばれていたそうです。

ちなみに、このバラ天皇の執務室や御所、宮殿に飾られたり、国賓を迎えた宴席にも飾られたりしたとか。

また、子どもたちの誕生日には自分で切ってプレゼントしたり

就任挨拶に来た他国の大使夫妻、外国の賓客にもプレゼントされたとか。よほど仕上がりが素晴らしいからこそ、こうした用途に使えるんだと思います。

また料理番として宮内庁典膳課に勤務していた渡辺誠さんは、自著『昭和天皇のお食事』で香淳皇后からバラをもらったエピソードを書いています。

渡辺さんの奥様曰く「こんな見事なバラは見たことない」との言葉だったので、きっと丹精込めて手入れをされていたのでしょう。

皇后陛下、ヤキモチをお焼きになられる

おっとりしている雰囲気が香淳皇后のイメージですが、若いころは意外や意外、こんなエピソードがあります。

それは昭和天皇が即位してから、まだまだ日の浅いころ。

上記のように非常に仲が良い昭和天皇、香淳皇后夫婦。夕食後には、香淳皇后のピアノを聞いたりと夫婦水入らずのひと時を過ごすのが常でした。

しかし、宮中のしきたりで生理の時(「おまけ」と呼ばれる)や風邪をひいた時などは、別室にこもって「家庭内別居」状態にならなきゃいけなくなります。

そうなると、夫婦水入らずの時間が丸々空いてしまい、無聊をかこつことになる昭和天皇。たまには内親王のところに顔を出したりして、暇をつぶすのですが

どうも、お仕えの女官にちょっと気になる女性(超美人)がいたらしい。

だけど、女のカンというものは鋭いもので…すぐ夫である天皇の視線で察知。…というか、そこをずるく隠せないのが昭和天皇の正直?なところ。

「あんた、どこの女に色目を使ってるのよ!?」と夫を即張り倒す…ことはなく、ましてや夫婦二人きりの時に訴える、でもなく…それでもやっぱり気になるので

なんとなーく、チラッチラと「にらむ仕草」で天皇をけん制してたとか。

この一件、お仕えしていた女官たちからはバレバレだったらしい。

「皇后さまがあれでは、お上はとても(女官たちに)近寄れないわね」と密かに笑いをかみ殺していた…とか。

香淳皇后、こっそり健康体操を学ぶ

若い時はスリムだった香淳皇后も、歳を経るごとにふくよかなご体型になり、侍医たちからは「ダイエット」を勧められました。

しかし、どんなことにも熱心な陛下は珍しく、ダイエットだけはあまり長続きしなかった模様。

これでは良くないのでは?と考えた入江相政侍従長(当時)。なんと当時健康体操で一世を風靡した竹腰美代子さんに(こっそり)オファーを出し、直接健康体操を教えてもらったということです。

運動をした人なら分かると思うのですが、運動だけでは割とほっそりした体形にはならない。

そこで、竹腰さんも「体操ではあまり痩せません」と一言申し上げたそうです。

すると皇后は一言「私はやせたくなどございません」。

では、なんでと思っていると「私は、急いだことがございません。私は、力を出したことがございません…私は一生健康で暮らしとうございます」とお答えになったといいます。

普段からそこら辺の女性陣に「痩せたい!痩せたい!!」とばかり訴えられて「ちげーよ!?」とウンザリしていた竹腰さんは「素晴らしい!満点だ」と感激したとか。

まず椅子から立ち上がったり、腰かけたりする動作にもたつかず、

立ち居振る舞いを軽やかにしたいと、体幹をつかさどる腹筋運動から始めたといいます。

ところが、いざ始めると困ったことが…

始めたはいいが、どう言って運動をやめさせるかが分からなかったそう。

「やめ」だと失礼だし、「それまで」じゃ柔道だし…と思案している間も教えられた腹筋運動に取り組む皇后陛下。

結局、通常メニューの3倍こなしたとか。顔を真っ赤にし、青筋が出るほどに。

私も筋トレにハマってたことあるんですけど、腹筋が一番キツいんですよ。飽きるし。すごい我慢強いと思います。皇后陛下。

ちなみに、運動時のお召し物は「中学生がはくような木綿のジャージーのトレパンに、上はお上のお古の開襟シャツ」だったそうです。

晩年の楽しみは夫婦でお散歩

皇居には、ご存知の方も多いと思うのですが武蔵野の森の面影を残す鬱蒼とした森が残されています。

お二人は、晩年に、この森を散策しながら昭和天皇が植物について話すのが何よりのお楽しみだったようです。

行き先は、「良宮、どちらにしようか?」「お上のお好きな方に」とやり取りをするのが常だったとか。

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【参考資料】

 

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