骨折しても出続けて、1175試合連続出場!スーツアクターの鉄人伝説!!

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この記事では、元巨人、阪急でプロ野球選手として

その後は球団マスコットに入って伝説となった、島野修さん(1950~2010)のエピソードを書いていきたいと思います。

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結果を残せなかった現役時代

1968(昭和43)年、読売ジャイアンツのドラフト1位として入団した島野修さんは

豪速球が自慢のピッチャー。しかし、高校の時の投げすぎが原因で

入団時すでに肩を傷めていて、逆境からのスタートとなりました。

3年目にやっと初勝利。

翌年のニューヨーク・メッツとの交流戦に好投したことから長嶋茂雄監督の目に留まり

開幕3戦目の先発に大抜擢。しかし、ここでも運を掴むことができず、

2年後、阪急ブレーブスにトレードされ

3年間一軍登板のないまま現役引退しました。

通算出場試合は24試合。ひっそりと彼はユニフォームを脱いだのです。

スーツアクターとして、ユニフォームを着る

しかし、球団を離れて喫茶店を営んでいた島野さんの所に

先輩の加藤秀司さんがひょっこり顔を出したことから「第二のユニフォーム人生が始まりました。

「マスコットやってみないか」という先輩の話を冗談だと思って苦笑いしたそうですが

球団からも連絡が来て「本気なんだ!?」と驚いたそう。

実は当時のブレーブスは「強いけど地味」で観客動員が振るわないのが悩みの種。

そこでメジャーでも始まったマスコットのパフォーマンスを

球団は陽気で明るい宴会部長キャラを覚えていて「彼ならできる」と白羽の矢を立てたのだとか。

最初は断るつもりだった島野さんですが「メジャーが先んじてやってる映像があるから、断るとしてもとにかく見てほしい」と誘われて

ビデオを見た島野さん。

試合の流れを読んで、ビミョーな判定に抗議をしてみせたり

選手にゲキを飛ばしてみせたりするリアクションを取り、

スタンドからも「いいぞ、もっとやれ!」と大喝采を浴びる姿に目が釘付けに。

上手に盛り上げる海外のマスコット姿に「コレはすごいぞ」と奥深さを感じて

ふたたび、マスコットとしてユニフォームを着る決意をしたのです。

劇団に通ってアクションを練習

彼はどうやったら盛り上がるかを

ビデオを見たり、人形劇団に弟子入りして徹底的に研究を重ねました。

ユーモラスで、大きな着ぐるみを被ると、オーバー気味だと思っても動作が地味になる、と気づき

言葉を使わずに動くマスコットがどうしたら怒ってるのか?喜んでいるのかという動作につながるのか、と考えたからです。

そしてマスコット「ブレービー」として、1981(昭和56)年のシーズンからデビューしました。

しかし、やり始めの頃は「元ドラ1がぬいぐるみを着るのか?」と捉えられ

球場でもその事をヤジる声が多かったそうです。

そんな毎日に思い悩み、試合後飲んでいたら、その食堂にブレーブスの試合を見に来ていた親子が

「また、ブレービーがみたいなぁ」「また試合に連れてって」と話しているのを聴いて

島野さんのハートに火がつきました。

「オレはスーツアクターのプロになる」とより演技に磨きをかけます。

ある時、またヤジが飛んできましたが

「わかってねーな」とポーズをとっておどけて見せたら、ヤジを飛ばした人が逆に笑わせられる、なんてエピソードも。

また、監督が抗議に行かない、本チャンではない微妙な判定では、ぬいぐるみの奥から審判に、

「今から抗議のフリをしますんで、よろしく」とささやき、派手に「ジャッジ、おかしくね~!?」みたいな動作をしてみたり、

ノッシノッシと歩く西武の清原の後ろをついて行って、バッティングルーティンをオーバーにマネしてみせたりと、グラウンドの盛り上げ役として縦横無尽に活躍。

このブレービー効果もあって、シーズン観客動員数は念願の100万人を突破しました。

ろっ骨を折る骨折をしても、試合に立ち続ける

阪急ブレーブスは1988(昭和63)年にオリエントリースに譲渡され、ブレ―ビーも、ブルーウェーブに球団名が変わったのを機に、ネッピーと交代しました。

しかし、島野さんのスーツアクター人生は続きます。

10キロ近いぬいぐるみを身にまとい、球場を盛りあげるスーツアクターは肉体的にもキツイ仕事です。夏なんかは一日やると10キロも体重が減る激務。

しかし、自分の代わりはいない、という責任感と誇りを持って、ネッピーに扮した島野さんは連続出場を重ねます。

1993(平成5)年のオールスターゲームでは、パフォーマンス中にバギーから転倒し、肋骨三本を折る大けがを負いながらも、コルセットでガッチガチに固め、試合に出続けました。

骨折だからと動きを小さくすることはできないため、痛みの出ない左腕を上手に使い、ケガを悟られないように動くのが難しかったそうです。

そして、1996(平成8)年6月15日、札幌の円山球場で行われたロッテ戦で1000試合出場を達成。イチローから祝辞を贈られました。

しかし、体の動きが年々苦しくなり、1998(平成10)年シーズン終了をもって、島野さんはスーツアクターを引退。

プロ野球選手としては通算24試合の出場にとどまった島野さんでしたが

スーツアクターとしてブレービー、ネッピーとして「皆勤」してチームを鼓舞し続け、その試合数は1175試合になっていました。

夢は消えない。形を変えるだけである

山あり谷ありの人生を歩んだ島野さんは、2010年に逝去します。60歳でした。

彼が切り開いたスーツアクターの道は、当初落伍者の末路として笑うものがいましたが、

今では、どこの球団でも疑問の余地が出ないほど、球場を盛りあげる名わき役として認知されています。

ブログ主も47近くなって、上手くいったことよりも、そうでない事の方が人生にははるかに多いと痛感するようになってきましたが、

与えられた場所でベストを尽くす島野さんのユニフォーム人生は、形を変えて大輪の花を咲かせたと、心から思っています。

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