「吉展ちゃん誘拐事件」発生から2023年3月31日で60年を迎えました。
当時は、「戦後最大の誘拐事件」として世の中がひっくり返るような大騒ぎになったこの事件も
歴史の一部として色あせつつあります。そこで、今回は当時の動きを振り返りながらこの事件がどんな顛末だったのかを簡単に話していきたいと思います。
近所の公園から子どもが消えた
前回の東京オリンピックを翌年に控えた1963年3月31日、夕方の台東区立入谷南公園に遊びに行っていた村越吉展ちゃん(当時4歳)が姿を消しました。
家族は迷子を疑い、警察に通報。当初は行方不明事件として捜査されます。
しかし2日後の4月2日、男の声で「子どもは預かった。50万円を用意しろ」という脅迫電話が入り、事態はにわかに緊迫。
何回かのやり取りがあったものの、犯人が誰なのかも特定できず、
4月7日に現金50万円を指定の場所に置き、周りを刑事で固めて犯人逮捕…のはずが
逆に犯人に50万円を持ち去られて、姿をくらまされるという大失態に。
以降、犯人からは一切の連絡が途切れ、さらに50万円の紙幣のナンバーを控えていないということも相まって、一切の手掛かりが失われました。
それまで、各社には被害者の安全を考慮して報道を自粛する「報道協定」が結ばれていたものの、
ついに窮した警察はコレを解除して
4月13日には、当時の原文兵衛警視総監が犯人に「吉展ちゃんを親に返してやってくれ」と発表し、誘拐事件ということと、犯人を取り逃がし、身代金まで持ち去られるという
最悪の結果になったことが報道されるようになります。
その後も、脅迫電話の声を公開したりして、必死に男の行方を捜すものの、決定打はなし。
この事態に、当時同世代の子どもを持つ親は震えあがり、街では様々な歌手が「返しておくれ今すぐに」という歌が作られてリリースされるなど
一大社会問題となったわけです。
捜査本部方式から、FBI方式に
2年後、面子丸つぶれの警察は大規模な捜査本部を大幅縮小し、
専従捜査官がこの事件に張り付いて捜査を行うFBI方式へと方針を転換しました。
しかし、ただ人数を減らすだけではなく、ここで切り札を投入します。
捜査の鬼と呼ばれ、数々の難事件を解決した、平塚八兵衛刑事を投入したのです。
平塚はこれまでの捜査資料を徹底的に洗い直し、一人の人物に目を付けます。
それは、容疑者としてマークされたものの、捜査本部がシロと判断していた、元時計職人の小原保でした。
その理由は「アリバイがあまりにも詳細すぎる」という疑念からスタートしたものでした。
小原は事件発生前の1963年3月27日から4月3日まで、故郷の福島にいた、と主張していました。
捜査本部は小原に疑いを感じていたものの、このアリバイがあまりに詳細であったことから突き崩すことができなかったのです。
平塚はまず福島に足を運び、彼のアリバイを一つ一つ、証言者に当たり徹底的に検証します。
すると、小原のアリバイとは矛盾する点が次々に出てきました。
例えば…
・「畑のワラボッチに寝た」と主張した日には、すでにそのワラボッチが撤去されている
・「実家に金の無心に行ったが、敷居が高くて蔵で夜を明かし、落としカギを開けてしみ餅を食べた」と主張していたが、蔵のカギは落としカギから南京錠に交換されており、事件の年はコメが不作でしみ餅を作っていない
・小原のアリバイと、実際の目撃談や記録は、日付がすべて違っていた
つまり…事件の起こった3月31日から、最初の脅迫電話のあった4月2日には
小原が福島にいた証拠は一切無かったことを調べ上げたわけです。
また、さらに捜査を進めていった結果、身代金とほぼ同額の支出を事件直後にしていた事実も突き止めました。
しかし、それは必ずしも彼が犯人であることを証明しません。
福島にいなかっただけで、別の場所にいた可能性もあるし、金はどこからか引っ張ってきたものだったかも知れない。
決定的な証拠は何一つなかったからです。
人権重視の声に、10日で落とせというムリゲーを強いられるが…
小原は当時、別件(窃盗)で前橋刑務所に服役していました。
それを呼び出して別件操作で取り調べをする、という話に「人権団体」が抗議。
警察幹部は取り調べを10日間と限定してきました。
「なぜ事件直後に大金を持っていたのか」という問いにそれまで主張していた横領を否定したものの、それ以外はこれと言った収穫はなく、
幹部は奥の手として当時注目を集めていた声紋鑑定に賭けることを決定しました。
声紋とは、人間の指の指紋と同じように、声にも身体的特徴が反映されるという
今では割と一般的な鑑定方法です。これで、脅迫電話の声と比較して、なんとか脅迫電話の声は小原であるということを証明しようとしたわけです。
しかし当時は技術が出たてでその精度も疑問視されていました。
最後の取り調べ日、捜査を行わず出来るだけ長いサンプルを取るために、平塚刑事たちには世間話をするようにという指示も出されていました。
そこで、自慢話に興じた小原は身体を張って火事を防いだことがある、
そうしてなかったら「日暮里の火事」になるところだったと話しました。
日暮里の火事とは、1963年4月2日に発生した火災のことで、これを山手線の車内から見た、と彼は言ったのです。
その日は、初めての脅迫電話があった日、そして…かつて自分が主張したアリバイに反する内容だったのです。
平塚は上司の了解を得て「日暮里の火事が脅迫電話があった日」であることを叩きつけ、相手の動揺に畳みかけるように
福島の捜査結果をここで始めて投入し、彼の築き上げた鉄壁のアリバイを徹底的に叩き潰します。
その上で、別の捜査で浮上した大金の出所を突きつけてさらに追求しました。
ここで、ついにもうダメと観念した小原は、お金の出所が身代金であることを自供します。
ここで「脅迫と営利誘拐」の容疑で逮捕となり、
次の壁は「吉展ちゃんはどこにいるのか?」でした。これこそが、真犯人の証だからです。
自供に基づき捜索、しかし吉展ちゃんが見つからない!
彼は、誘拐の直後に南千住のお寺で吉展ちゃんを殺害し、お寺の墓の中に埋めたと自供しました。
その知らせを受けた警察は時を待たずに、すぐ現場に急行。必死で遺体の捜索を行います。
しかし、捜査を続けても、中々見つからずに焦りの色が…
実は、犯人の自供したエリアには、真正寺と円通寺という道を挟んだところに2つの寺が並んでいました。
犯人の勘違いでまず真正寺に調査に入ったものの、途中に間違いに気づいて道一つ向こうの円通寺に急行しました。
そして、真夜中に吉展ちゃんの白骨化した遺体をついに発見。
犯人しか知り得ない「秘密の暴露」が証明されました。
また、吉展ちゃんの口元からは、一本の植物の芽が伸びていました。
この鑑識を担当した東京都の監察医、上野正彦さんは、この植物が2年後に発芽する性質を持つ「ネズミモチ」の芽だったことを突き止めます。
これで「誘拐直後に吉展ちゃんを殺害したこと」も合わせて証明されたのでした。
事件発生から2年3か月。事件はようやく解決されたのです。
後にお寺の敷地の左手、墓地の入り口に「よしのぶ地蔵」が昭和41年に建立されました。
そして、非公開ではあるものの、吉展ちゃんの発見された墓地の一角にもお地蔵さんが建てられ、
ご両親も事件後によく訪れて、息子の冥福を祈っていたそうです。
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