Xの投稿に「美談」と書かれるとモヤモヤする件

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X(旧Twitter)を始めてもう随分経つ。

ワイの投稿は自分のことを書くのではなく、割と雑学をまとめた内容になっている。

ただ、私は言葉をポジティブに使ってあげなきゃ可哀想だ、

同じ使うなら人を喜ばせたり、楽しませる事に使いたい、という信念じみたものがある。

人を罵ったり、貶めたりというネガティブな目的だと、言葉が悲しむ気がしてしまうのだ。

そんなわけで、ちょっと笑っちゃう、とか、

ちょっと面白い、

ちょっと懐かしい、

ちょっと楽しい、ちょっとビックリ…

そんな「ちょっとした」話題を好んで投稿する。

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なぜか湧いてくる「美談だが」のフレーズ

ありがたい事に投稿は割と好評で、バズることも多い。

中には「癒しになる」「ホッとできる」という声もある。

言葉をポジティブに使ってあげたい、という思いから生まれた投稿がそのように受け取っていただけると、心からうれしい。

だが…10000人にひとりくらいの割合で、心に小骨が刺さるようなコメントが来る。

一番嫌なのが「この話は美談だが…」というコメント。

「だが」というからには、内容に不満でもあるのだろう。

好みに合わない文はある。好みに合わない内容もある。

私だって、村上春樹の作品はどうしても馴染めないし、読んでいない本もある。

しかしながら「この美談だが」というフレーズが釣り針の返しみたいにいやらしく感じる。

認めているようで、嫌味を言っているように取れる。

なぜ私は「好きなこと」を書きたいのか?

こういうコメントが寄せられると、気が小さいので一々気になって仕方がない。

私は「好きな」話題を書いている。

その根本をあえて披露するならば

人間って一生懸命で間抜けなことしたり、良かれと思ってやった事が裏目に出ちゃう事がいっぱいあるんだよな。

そんな中でも、頭をぶつけたりずっこけて膝小僧を擦りむいたりしながら

性懲りも無く試行錯誤をしていくのだろうな、と。

「どうしたらいいんだろう?」と思いを抱えながら酒に溺れたり、眠れない夜を過ごす。

そんな中でも「たまさかに」嬉しかったり、楽しかったりするひと時を大事にして

毎日を死に向かって生きていく存在だと。

でもそれがいいんじゃん。成功しても失敗しても、運や偶然の産物もある。

あるいは「神がかり」としか言えない、「奇跡」としか言えないものもある。

人間なんて、所詮その程度の存在。だけれども、そこで何とかしようと「もがく」中に

私は人生の悲喜劇や、味わい深いものを感じている。

「知ったかぶり」の若造にカチンとくる感覚

その中の膨大なエピソードの中から琴線に触れたものをちょっと拝借して

「あるある」と共感できる事をまとめてコツコツと投稿しているのだ。

私の投稿を楽しみにしてくれている人は、そんな中に自分の思い出や経験、その他諸々に感じるところがある、と思っている。

それを簡単に「美談だが」と片付けられてしまうと、

「美談」という言葉の薄っぺらさに

「お前に何がわかる!?」

という感情で頭の火山が噴火してしまう。

えらく薄っぺらいまとめ方しやがると。

まるで若き日の私が世の中を知ったような口をきいていた、

「幼い」(若いではなく)自分を目の前に見せつけられるような

イヤーな気分になってしまうのである。

でも、やっぱり書いちゃう。

それでも、私は書き続けたい。

「書く」事は私の願いを文章化することでもある。

ひと言で言えば「人間ってバカだけどいいよね」って事。

人を人として、見ると、うんざりしそうな毎日を同じ空の下で繰り広げながら

しくじってずっこける。

「あ、しまった!?やらかした」と思いながら膝をフーフーして絆創膏貼って

ちょっと痛いけど、泣きべそかきながらすぐ立ち上がって歩き出す。

そんな「性懲りのなさ」が自分の人生と二重映しになる。

そんな人が心からかわいい。

そして、自分が人生で何回か手痛い失敗をした時、

ずっこけた私に手を差し伸べてくれた先輩や仲間の手の温かさを合わせて思い出し

人が同じ目に遭った時、手を差し伸べられる自分でいたい。

そんな願いを込めて、私は文を書き続けている。

それが分かる人がいる。それは本当に幸せなことだと思う。

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