この記事では、柴五郎さんの自伝「ある明治人の記録」を紹介します。
柴五郎さんは会津藩出身。戊辰戦争での悲惨な戦い、その後の苛烈極まる仕打ちを生き延びて陸軍に進みます。
のちに、義和団事件では抜群の働きをするのですが、
ここで彼が書くのは、幕末から西南戦争にかけて、彼と家族達がどう生き抜いたのか、ということです。
今読んでいる『いっきに学び直す日本史』ではオミットされた会津側の人々が、維新後どのように生き抜いたか…これが昔の文体(これを文語体、というのかなぁ)で書いてある本です。
帯には『涙なくしては読めない維新「敗者」の回顧録』と書かれていますが、それが全く誇張ではない。
当時まだ7歳かそこいらの柴少年が経験した体験は、今42の僕から見ても苦難の道そのものでした。
会津がかわいそうじゃないか…
幕末、テロが横行する中、京都守護職で治安維持に粉骨砕身し、孝明天皇からも高く評価された松平容保公と、彼に率いられた会津藩士たちの頑張りは誰が見ても明らかなものでした。
それが維新後、倒幕運動で「佐幕側」のレッテルを貼られ、朝敵と決めつけられました。
幕府が大政奉還したあとも、謹慎して恭順の意を一貫して示していた会津藩に対し、新政府側は会津を「潰し」に来ました。
幕末に、頭に血が上った過激派から京の治安を守り、
時の天皇、将軍からも頼りにされていた自分たちがいつのまにか、敵と決めつけられた、その悔しさはいかばかりか…
孤立無援の中、国を挙げて戦うも祖国は蹂躙され、男はもちろん婦女子までも巻き添えを受けるという悲惨な目に遭います。
地元に残った者も、松平容保の子が家の再建を許されて移り住んだ斗南藩(現在の青森県)に付いていった者も、生きるのがやっとという超極貧生活を強いられます。
かつて、僕は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」のワンシーンが好きでした。
薩長同盟成立のとき、竜馬がどっちつかずで曖昧な対応に終始する薩摩藩に
「長州がかわいそうじゃないか!?」と一喝。そこから一転、薩長同盟の形がまとまるシーンです。
だが、この本を読んでいると、もう会津藩が一途でかわいそうで…これでは会津がかわいそうじゃないか…と涙が止まりませんでした。
会津の国辱を雪ぐまでは戦場なるぞ
国を挙げて「維新政府軍」のリンチにあい、その後も苦汁を飲まされ続けたような会津の人々。
柴さんの一家も例外ではありませんでした。
本格的な戦闘の前に「虜囚の辱めを受けないように」祖母、母、姉妹が自刃し、戦闘を生き延びた兄も無実の罪で獄に繋がれました。
残った家族で斗南藩に移りますが、ここは一言で言えば「ただの荒地」。
夏のうちまでは山菜や海藻を採り、葛の根からデンプンを取って飢えをしのぐも、冬には食料に窮乏します。
家はあばら家で夜具がわりにむしろや俵をほくじたものでしのぐ毎日。しまいには犬の死骸を拾ってきて、塩味で煮たものまで口にしたそうです。
精肉したりしてないものだから、当然血抜きも何もされていない。
きっとおぞましい獣臭と味がしたのではないかと思います。
余にとりては、これ副食物ならず、主食不足の補いなれば、無理して喰らえども、ついに喉につかえて通らず。口中に含みたるまま吐気を催すまでになれり。
しかし、その様子を見て父親は柴少年を叱りつけます。
「武士の子たることを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪(すす)ぐまでは戦場なるぞ」(74ページ)
…僕は独り身ですけど、父親の苦渋は察するに余りあります。
母親、妻、娘たちを守りきれず、生き残ったものには、ろくな食事を与えられず、果ては犬の死骸まで食わせなければならないというのは、家長として情け無いかぎりのはず。
それでも生き延びて、必ず自分たちの受けた辱めをすすぐんだ、死んだらおしまいだ!と叱咤激励する姿には「みんなの犠牲をムダにはしないし、挫けてなるものか」という
血を吐くような決意の表れだと思うからです。
この本を読んで感じたこと
自伝は西南戦争あたりまでで終わります。
柴五郎本人はその後、藩閥が幅をきかせる中でも昇進を果たし、最終的には陸軍大将にまで出世、特に中国情勢のエキスパートとして活躍します。
特筆すべきは彼は、中国にも多くの知己を持ち、彼らとの交誼は文字通り「命がけ」の行為で守られたものだったということ。
しかし、彼の後任たちは彼の目から見ても中国に対する考え方の甘さや長期的な戦略眼の稚拙さ、なにより「利用するだけ利用しておいて協力者を見殺しにする」ように見えたようです。
だから彼は当初から「この戦は負ける」と明言していたそうです。
もしかしたら、彼は身勝手な理由で会津を叩き潰した維新政府と私利私欲むき出しで、中国を貪ろうとした帝国陸軍がダブって見えたのかも知れません。
日本降伏を見届けて1945年12月13日に柴五郎翁は亡くなります。
ちなみに本書は当初、公表することなくお墓に納めるつもりで書いたそうです。
本来幾多の苦難に遭いながら、世間に知られることなく倒れていった先人たちへの「鎮魂」のためにひそかに書かれたものなのでしょう。
それが現在、こうやって読めるのは、開戦まもない昭和17年に
柴五郎本人が編者の石光真人氏に校訂を依頼し、書写を許可したということが大きいのです。
本来秘するつもりだったものを広く世に問う、それも日本全体が焼け野原になった後で、僕はここにも意味があるのではないかと思っています。
つまり「日本は戦争に負けたが、日本が滅びたわけではない。どんなに辛いことがあろうと必ず復興する。諦めるな」という、
同じような経験から立ち上がった先輩からの叱咤激励だろうと
そして「光あれば影あり、勝者あらば常に敗者があること」を深く戒めてほしいという思いも当然あるだろうと
勝手に解釈しています。
【会津魂を持った軍人は柴五郎だけではない】
第一次世界大戦の時、青島で捕虜になったドイツ軍人を収容した「板東俘虜収容所」の所長も、また会津の出身でした。
敗者の厳しさを骨身に沁みて分かる所長、松江豊寿はドイツ兵にどう接したのか?
『世界一自由な捕虜収容所を作った男~『松江豊寿と会津武士道』』
参考図書
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