この記事は、1936(昭和11)年2月26日に発生した「二・二六事件」について書いていきます。…といっても、この時自らなんとか情報を集めようと電話した昭和天皇と、
その電話を偶然受けることになった巡査の話です。
鈴木侍従長は生きていますか?
二・二六事件発生の翌日、1936(昭和11)年2月27日夜8時ごろ
東京府の麹町警察署に帰って来た、大串宗次巡査(当時28)がかかってきた電話に出た。
性急な声で「ヒロヒト…ヒロヒト」と聞こえた。
「もしもし、どなたですか?」と繰り返すが返事はなく、すぐに電話は切れた。
「おかしいな…」と思う間もなく、ふたたび電話が鳴り、さっきとは別の男が話し出した。
「いま、日本で一番偉いお方がお出になる。失礼のないように」とのっけから言い渡された。
大串巡査は正直ムッとしていた。そりゃそうだ。
今表では青年将校率いる部隊だけでなく、動きをけん制するために陸軍だけでなく海軍陸戦隊も上陸して帝都は一触即発の雰囲気に包まれている。
ただでさえ忙しいのに、日本で一番偉いお方?一体全体なんなんだ?と。
…それから別の男の声で「鈴木(貫太郎)侍従長は生きていますか?」と尋ねて来た。最初の電話の声だとすぐに気が付いた、という。
「はい、生きています」と大串巡査。
「…それは良かった。生きていることは間違いないか?」
「昼間、確認してまいりました。兵隊たちの目をくらますために花輪を並べておりますが、たしかにご存命です」と大串巡査は明言した。
総理はどうしていますか?
ついで「(岡田啓介)総理はどうしていますか?」と矢継ぎ早に質問してきた。
その声に「多分、生きているでしょう」と巡査は答えた。
「生きているという証拠はあるか?」と声。
「官邸の周囲は兵に囲まれています。状況を探るのは困難なのであります」と巡査が報告した。
しばらく、大串さんへの質問は途絶えたものの、電話の向こうから
「チンは誰と連絡をとればよいのか。ああ、股肱の生死すらも知ることができない。チンはいったい誰に聞けばいいのか…」
という悲痛なつぶやきが漏れて来た、と大串さんは語っている。
その後ふたたび、電話の主が大串巡査に語り掛けた。
「…それではチンの命令を伝える。総理の消息をはじめとして状況をよく知りたい。見てくれぬか」
チン、めいれい…朕?命令?まさか電話の主は…ええっ!?
近衛を名乗らせてください!
大串巡査は声の主の正体に気づき、パニクりながらも
「あの周りは反乱軍だらけで、ノコノコ出かけて行っても犬死です。しかし、高貴な人なら決して手出しをしないでしょうから、私が高貴なお方…そう、近衛某を名乗ってもよろしいですか?」と大串巡査は許可を求めた。
その後、陛下から「名前はなんというのか」と尋ねられたが、テンパってた巡査は自分の名前でなく、自分の所属している「麹町の交通です。麹町の交通でございます」と答えた。
大串巡査は電話での約束を守り、岡田総理の消息などを探り出し、陛下からの電話を待った。
ところがこの「昭和天皇の生電話」は二度と来ることがなく、そのまま事件は終結したのである。
この中に「コウジマチノコウツウ」はいませんか?
…それから14年後の1950(昭和25)年。
この大串巡査は順調に警部に昇進し、恒例となっている皇居を拝観することになった。
その時、どこから聞きつけたのか
侍従を通じて昭和天皇から「この中に『コウジマチノコウツウ』を名乗った人はいませんか?」とのご質問が来て
大串警部は、「14年も前の話なのに陛下、まだご記憶だったのか!?」とぶったまげたとのこと。
この話、実際に大串警部が昭和天皇にまみえたかどうかについては、確たるものがないのが現状で
もし新たな情報を得られたら、書かせてください、という形で今回は締めくくりたいと思います。
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