今日は、振替休日でお休み。
たまたま、熊谷の八木橋百貨店で巌窟ホテルの写真展をやっていると聞き、車を飛ばして出掛けてみました。
巌窟ホテルというのは、今の埼玉県吉見町にあった崖に穴を掘った人工洞窟。
私が子どもの頃、両親の実家に行くときは関越自動車道の東松山インターから高速道路に乗ってまして
途中の吉見百穴の近くの崖に、バルコニーみたいなものが見えた記憶がありました。
あれが、百穴だと勝手に思い込んでいたのですが
どうも、それは違うと言われて、その昔巌窟ホテルという、山肌に穴を掘ったモンがあったとのこと。
でも、最近百穴を見学した際に、どこにもソレっぽい建物が見つからず、
ネットニュースでこの写真展を聞きつけて、行ってみることにしたわけです。
で、現地に到着。そして、今日が最終日で、ギリセーフでした。
垂れ幕まで付けてのPRに力の入れようが分かるというものです。
喜び勇んで、店内8階に向かいましたわ。
秘密基地を大人が作ったら、観光名所になった話が面白すぎる
受付でなんか、パンフかチラシありますか?と尋ねたら
予想以上の反響でチラシが全部なくなった、とのこと。
カンペが無くなったけど、室内は写真OK、SNS大歓迎とのことで、ありがたく写真を撮りまくりました。
で、この巌窟ホテル。本当は「高壮館」という正式名称があり
巌窟ホテルという名前は、「巌窟掘ってる」がなまったもので、ホテルとついていても
そもそも宿泊施設ではなかったことにビックリ。
で、この洞窟を掘ったのが地元の農民、高橋峰吉。
「何等功利上の目的はなく、唯純粋な芸術的な創造慾の満足と、建築の最も合理的にして完全なる範を永く後世の人士に垂れんが為」掘ってみたという
そこら辺の変わった石ころを集めて、理想宮を作っちゃったシュヴァルを想起するような話です。
あるいは、子どもの時に作った「秘密基地」を大人が本気でやったら、こうなったというべきか…。
初代は1904年に着工し、1925年に死去するまで
ツルハシとノミで山肌を掘り進めました。
山は凝灰岩という柔らかい岩ではあったものの、1日30㎝を掘るのがやっと。
当初の構想では3代150年で、全3層からなる洞窟になる予定だった、とか。
その間にも、この奇怪な建物は隣接する吉見百穴とともに、多くの見学者が訪れ、大正期には一日500人くらいが来たとか。
道半ばで初代が亡くなって、昭和の初期から息子の奏次さんが後を引き継ぎ、さらに掘り進めて
2階の一部までは掘り進んだと言います。
途中からは、外装を修復したりと言ったメンテナンスが必要になり、当初の構想を進めることが出来なくなったり
台風などで外装が剥がれたりと、トラブルが続出。
2代目が1987年に逝去して、公開もされなったとのこと。
ちなみに、外側は石灰を塗って下地を作り、そこにペンキで柱や屋根を描く形。
中はインテリアから何から、全部穴を掘る時にそこにある岩から削り出す、という念の入れよう。
1階には化学実験室や大広間などがあり
階段を上がって2階にはバルコニーなんかも設置されていたそうです。
…するってえと、私が幼少期に見たのは、2階だな、と。
この鉄柵(写真左)に見覚えありますから。
で、この写真を撮影された新井英範さんにお話を聞いたら、この写真は1978(昭和53)年に、外側を塗りなおした直後に撮影したもの、だったとか。
「なんで、写真撮りに行かれたんですか?」と尋ねたら、当時から「面白いものがある」ということは話題になっていて
それで撮ることになった、といいます。
写真を展示している場所の隣で、巌窟ホテルの写真をスライドショーで上映していました。
大画面だとやっぱり迫力があります。
現在はどうなっているかも、見に行ってみた
めくるめく、巌窟ホテルワールドを満喫し、家に直接帰るのでは味気ないんで
今はどうなってるかも見に行ってみました。
高橋さんの子孫が巌窟売店という店を敷地の向かいに出している、と聞いて行ってみたら、今日は定休日。
看板に「昔は掘ってる、今は打ってる この頃定食、コーヒー揃ってる」という看板が。
しっかりネタにしてますな。
で、その道を挟んで向かい側に閉ざされた門扉が、有刺鉄線まで巻いてかたくなに進入を拒んでおりました。
おそらく、最初に掲示した写真のここでしょうね。
この門扉の間からスマホを伸ばして、写真を撮ってみると
金網を貼って封鎖された入り口が見えます。35年以上の年月で、高橋父子が掘り進めた巌窟ホテル高壮館も、崩落しながら姿を消すことになるんでしょうね。
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