私、昭和53年生まれなんですが、なにしろ昭和のエピソードを発掘するのが大好きで、そういう本を好んで読んでいます。
亡き祖父になついていた私ですから、祖父がどんなふうに生きていたんだろうと考えると、同時代の人たちの生き方を紐解いてみたくなるわけです。
そんな風にして読み始めた中に植木等さんと小松政夫さんの師弟エピソードがあって、これはこれですごく面白いので、ブログの記事にさせていただきました。
今回は、植木等さんの代表曲といってもいい、スーダラ節の誕生秘話を弟子の小松政夫さんの著作から編集してご紹介したいと思います。
実は石部金吉だった植木さん
植木等さん、といえばクレイジーキャッツのメンバーで、生前は無責任キャラで売った人物です。
ところが、ご本人は、「飲む」「打つ」「買う」の三拍子に全く無縁。
まず、酒が飲めない、奈良漬けを食べても酔っぱらって具合が悪くなるほどの下戸。
バクチは大嫌いで、付き人達にも厳禁していました。
ご本人はすごいハンサムだけど、キレイな女性がいるような店にはプライベートでは一切近づかず、仕事が終われば、自宅に帰って4人の子どもと遊ぶのが何よりの楽しみという、典型的な「マイホームパパ」でした。
ぜいたくは?というと、これがまぁ…質素。小遣いは一日1000円もあれば十分。食事はアジの干物があれば大満足。
宿泊先も一流ホテルじゃなく、フツーの旅館で、食事の時に入るのは一膳めしや。
でも、ケチでもなく、いつもパリッとしたものを着てて、たまに気分がいい時、ネクタイを買ったときに「スイスイ」という言葉を口にしながら見て見て!とやるかわいい一面もありました。
この「スイスイ」から「♪スイスイスーダラダッタ、スラスラスイスイスイ」が生まれたわけです。
本当は二枚目をやりたいのに…
いつも口ぐせを聞いていた人たちが「あれで歌作れねーかな」と初レコードの話が持ち上がりました。
で、青島幸男さんが歌詞を書いた。
初めて歌詞を渡された時植木さん「オレの歌手人生、終わった(´・ω・`)」と思ったそうです。
一杯のつもりがやめられなくて、飲んだくれてベンチでごろ寝する
ボーナスを競馬につぎ込んでスッカラカンになる
女に貢いで見事に振られる
わかっちゃいるけどやめられない
それまで、二の線(かっこいい)イメージを守って来たのに…なんだ、このムチャクチャな歌詞は?と。
のちに付き人をしていた小松政夫さんは「ホントは、ディック・ミネみたいな歌を歌いたいんだよな…」とぼやく「親父さん」の姿を目にしているそうで、
半そでシャツに、ステテコ、腹巻、ゴム草履といういでたちで、なんで、こんな変な歌がよりによって…と目の前が真っ暗になったとか。
歌詞に頭を抱えて「破天荒坊主」の父に相談
そこで、植木さんは僧侶をしている徹誠さんにと相談しました。
すると「お前に歌手をさせようという変わり者がいるのか。それだけでラッキーじゃねーか」。
この徹誠さん、名前の堅さとは裏腹に、戦中は出征兵士に「いいか、人に当たらないように銃を撃て。バカな戦争で死ぬことはない。生きて帰ってこい」と口走って特高警察のご厄介になったり
植木さんの前で仏像をペシペシはたいて「こんなものは作りもんだ」と言い切っちゃう「破天荒坊主」。そんな父親だからこそ、マジメ人間の植木さんも信頼を置いていたのです。
それでも、不満タラタラな植木さんの声に「どんな歌なんだ」と説明を求められて
歌詞を説明したら、逆に「おお、それは素晴らしい歌だ」と徹誠さんは大絶賛。
人間の永遠不滅の真理をついた歌
「お前、親鸞聖人を知っているだろ?」と徹誠さん。
「あの人はな、一生で『僧侶はやってはいけない』と言われたことをやっちゃって、『人間はわかっちゃいるけどやめられない』ことをする、ということを悟られたんだ」と植木さんに語ります。
「この曲は、煩悩からは逃れられない人間の永遠不滅の真理をついた歌じゃないか。一生懸命歌え」と背中を押してくれたと言います。
そんな、ことを聞いてる方は承知していたか、それはさておき…
この曲は大ヒットして、後に無責任男シリーズという映画になり、植木さんを大スターに押し上げるきっかけになったんだそうです。
【参考図書】
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