犠牲者126名…戦後の混乱の中に紛れ込んだ大惨事~八高線多摩川橋梁列車正面衝突事故~

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昨日、8月24日にX(旧Twitter)の投稿で

「八高線多摩川橋梁正面衝突事故」を取り上げたことで

「取り上げたからにはどんな事故なのか説明して!」との声が多数寄せられました。

そんなわけで、今回はこの八高線多摩川橋梁正面衝突事故について詳しく説明を試みたいと思います。

今回の記事は、昭島市教育委員会が編纂した『追跡!まぼろしの八高線衝突事故』からの資料を用いブログ主が要約したものです。

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単線の橋の上で列車が正面衝突!

事故直後の多摩川橋梁の現場写真(鈴木利信氏撮影)

 

時代は1945(昭和20)年8月24日、午前7時40分ごろ

八高線の多摩川橋梁周辺地域に爆弾でもさく裂したかのような爆発音が響き渡りました。

線路が一本の鉄橋に八王子方面と高崎方面から列車が進入し、鉄橋のど真ん中で正面衝突しました。

事故当日は一昨日から日本を襲ったミニ台風の影響で多摩川は増水し、事故に遭遇した乗客はあるものは正面衝突によって押しつぶされ、

またあるものは橋梁から落ちて、多摩川の濁流にのみ込まれるものも多数いました。

地元の消防団らが必死の救助を行ったものの、救出は多摩川の増水もあって思うように進まず

中には東京湾にまで流されて、変わり果てた姿で見つかる人もいる大惨事。

しかし、当時は主な情報手段が貧弱で

ラジオが停波されたり、新聞は1枚2ページという限られた紙面で発行される状態。新聞によっては180人を超えると書くなど、事故後も詳細を伝える余力がありませんでした。

そのため、注目度も少なく事故を目撃した方の間で語り継がれた「幻の事故」と化していたのです。

事故はなぜ起こったのか?

八高線多摩川橋梁正面衝突事故略図

この事故の大きな原因は「連絡手段が失われたこと」です。

当日の午前4時、八高線小宮駅は多摩川の対岸にある拝島駅との連絡が取れない事に気がつきます。

当時の小宮駅は、通常の電話の他、拝島駅とすぐに連絡を取れるホットラインを持っていましたが、こちらも何らかの理由で不通となり、完全な、陸の孤島となっていました。

多摩川橋梁は、上下の列車が連絡を取り合いながら、一本づつ通していく単線の橋でしたから

通常であれば、両駅が連絡を取り合い、この鉄橋を渡る列車に持たせるタブレット(通票)を用いた

通票閉塞方式で運行していました。

これは、通過する列車は直前駅でタブレットを受け取ってから初めてその区間の通行ができるという

単純だけど確実な方法です。

しかし、両駅の連絡が閉ざされると、運行はままなりません。

その際には、小宮駅側から「適任者」を選んで、隣接する駅に派遣し

「適任者」が派遣先の駅で「責任者として」話し合い、取り決めた段取りでタブレット役を行う、と当時の「運転取扱心得」で決められていました。

当時の小宮駅でも、適任者 A(仮名)を派遣することが決定され

①「上り列車→下り列車」で運行するという小宮駅長の方針を携えて、Aは荒天の中、歩いて拝島駅に向かいました。

しかし、あまりの荒天であることや、利用客への影響(当時は復員兵や疎開先からの帰宅客が大変多かった)を考慮。

小宮駅長は

②「下り列車→上り列車」が現状に合うのでは、と方針を転換。

この新たな方針をBという人物にメモ(打合票)に持たせ、単行機関車で拝島駅に派遣。

道中でAを拾って、拝島駅に到着します。

電話一本、が使えなかった末の悲劇

Aの持ってきた①と、Bが打合票で持ってきた②。これは真っ向から矛盾するものとなりました。

本来ならば「電話一本」で駅長同士が確認を行えば済むところ、それができないばかりに「現場が判断」をせざるを得なくなりました。

情報としては後出しの②に更新するべきではあるものの、現場の責任者は A と定められています。

運転取扱心得に照らして A が「責任者」として

「私がタブレットの代わりになるから、反対側からは電車を送れないはずだ」と主張し拝島駅側もこの意見を採用します。

Aは「私が小宮駅に戻らなければ、下り列車は発車しない」と考えていたようです。

一方で、小宮駅長も B の乗った単行機関車が A を拾って無事拝島駅に到着し、

Bの持った②の方針が伝わった、と信じ込んでいました。

 

また、双方悪天候や機関車の不具合などで遅れが出たことも、

「ああ、向こうから列車が来ないということは、私の取った判断は間違っていない」という

拝島、小宮両駅の思い込みをさらに強くしたのでは、とブログ主は考えます。

実際、拝島駅側では寄居駅始発の上り列車が14分遅れで到着、①の方針に従って A(タブレット役)と B を乗せて出発しました。

一方でまた、小宮駅は②の方針で40分遅れで八王子発の電車を、タブレット役の駅員を載せて、発車させます。

結果、橋梁上でこの2列車が、午前7時40分ごろ多摩川橋梁の上で正面衝突を起こした…というわけです。

とにかく、路線復旧が最優先

当時は前述しましたが、昭和天皇の玉音が放送されてから10日経っていません。

兵役に取られた人たちが故郷に帰り、疎開者が自宅に帰宅するという流れが続いています。

今のように自動車も普及していませんから、いかに事故を起こした路線でも、とにかく路線を復旧させることを優先しました。

現地の人の話だと、事故を起こした車両は5日ほど、橋梁の上に残され

まず、乗客の救出に当たっていたそうですが、その後事故車両は橋から落とされて、八高線は運行を再開することになりました。

この間、同著によれば、新聞記事はほとんどベタ(タイトルも小さく、簡単な説明しかない記事)ばかりで、続報も似たり寄ったりであったり、

あるいは取り上げられることが無かったと推測しています。

また、八高線は1947(昭和22)年2月25日に

食料の買い出し列車客を満載させた列車が脱線、184人(188人との記述もある)の死者、570人の重軽傷者を出した

八高線脱線転覆事故が発生したこともあり、2つの事故が混同されたりもしたのではないか、と同著では指摘しています。

最後に

同事故はWikipediaでも単独の記事になることなく、戦後の混乱期に頻発した事故の一つとして、簡潔に紹介されている事故に過ぎません。

しかしながら、この事故は記憶が風化される前に、1982年に現場写真を撮影した鈴木利信氏の写真公表

そのことをきっかけに当時生存していた証言者の声を集めて1985年『大列車衝突の夏』を著した舟越健之輔さんの地道な取材、

さらにその資料を基に調査、研究し舟越氏の著書から35年後当記事の基礎資料となった『追跡!まぼろしの八高線事故』を

編纂した昭島市教育委員会のみなさんには、先人の歴史を残してくれたことに対し、深い感謝の念を覚えずにはいられません。

【参考文献『追跡!まぼろしの八高線衝突事故』の入手法はこちら↓から】

頒布図書|昭島市

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