野村克也さん極上エピソード集!!

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この記事では、2020年2月11日に亡くなられた野村克也さんの、とりわけ笑えるエピソードをご紹介します。

南海ホークス兼任監督時代のノムさん(中央)

野球史に残る名選手、名監督だっただけにエピソードには事欠きませんが、

立派なエピソードだけでなく、こんな面白い人だったんだというエピソードを少年時代から、監督時代までをいくつか集めてみました。

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最初なりたかったのは「歌手」

野村克也さんは、生まれて間もなく徴兵された父を戦病死で亡くされ、母親もガンになって死ぬか生きるかというほどでした。

従って家庭はビンボーのどん底!

お母さんのフミさんは中卒で工場で働く道を勧めますが、お兄さんが夜学に通いながら島津製作所で働き、高校の学費を出してくれたそうです。

身に染みて「ビンボーは嫌だ!」

と野村少年は感じ、なんとか大金を掴みたいと最初考えたのがなんと「歌手」。

毎日浜辺で歌の練習をしたのですが、ご自身曰く「あまり上達しなかった」とのことで、この道は断念します。

後に『俺の花だよ月見草』というレコードを出したノムさん。やはり野球の方が上手かったんでしょうね。

野球部廃部の危機を、頭脳プレーで乗り切る

先述した様にお兄さんの仕送りで府立峰山高校に入学した野村少年。

しかし、野村少年は生徒会長になるほど頑張っていたのですが、野球部はガラの悪い先輩ばかりで窓ガラスを打球で割ってしまうなど、めちゃくちゃ評判が悪い!

しかも顧問の先生もいない!

廃部のピンチでした。

しかし、プロ野球選手になるにはなんとか野球部を存続させて、アピールしなきゃ…と野村少年は一計を案じます。

野球部の存続にとりわけ強硬に反対してた清水先生の小学生の子どもたちに「野球やらんか?」と誘い、懐いたところで「今度の日曜日、野球部の試合なんや。トーチャン連れて試合見に来い!」とささやいたのです。

大好きなお兄ちゃん達が出るから、と子供に引っ張られてシブシブ試合の応援に来た清水先生。

ここで部を挙げてのハッスルプレーで峰高野球部は快勝!

この試合ですっかり野球の面白さを知った清水先生、自論の廃止論を撤回するどころか、野球部顧問就任を快諾し、野球部の後押しをしてくれるようになります。

この清水先生、後にテスト生としてプロ入りする際に、各球団に手紙を書いてくれたり、プロ入りに反対するお母さんに「プロでうまく行かなくても私がちゃんと面倒を見るから、どうか行かせてほしい」と説得してくれたそうです。

恩師清水先生の熱意ある説得に、フミさんもついにプロ入りを承諾。野村克也さんは南海入りを果たしました。

ささやき戦術

こういった人の後押しや、二軍監督も舌を巻くほどの本人の努力によって戦後初の三冠王になるなど大活躍したノムさん。

34歳でオーナーに口説き落とされて兼任監督になります。

しかし、かつての強豪南海ホークスも世代交代を迎え、杉浦忠をはじめとするかつての主力が相次いで引退。戦力が大幅ダウンしました。

そこで他のチームから伸び悩む投手を連れてきて、あの手この手で育て上げることに。

『野村再生工場』と呼ばれるようになります。

とはいえ、他所でダメの烙印を押された投手。そのまんまでは役に立たない。

そこで、キャッチャーの立場からバッターを揺さぶるために使ったのが「ささやき戦術」

東京では銀座、大阪ではミナミのクラブに夜な夜な出かけては、野球選手に付いてる女の子を呼んでこい!と招集をかけて、

彼女たちから「野球選手の情報」をせっせと収集したそうです。

で、いざ打席に立った時に、ポッと出す!

これが効いた!!

ちなみに私が好きなのは盗塁を日本一やった選手への一言。

当時強豪チームのトップバッターだった選手に関する情報収集を開始!

この選手を出したら、確実に先取点を取られる。ならばなんとか、塁に出さないようにしなければ…

たまたま新聞に載ってた記事を目ざとくチェックして手に入れた情報をノムさんは彼にぶつけました。

被害者の『ユタカちゃん』

「おい、お前カミさんに『ユタカちゃん』とか言われとるそうやないか、ユタカちゃーん(はぁと)」とささやいたそうです。

バット、毒ガス、耳栓

もちろん、相手もやられっぱなしではなく、それなりに反撃を試みます。

「喝!」で有名な某安打製造機はオーバースイングの振りをしてノムさんのヘルメットをぶっ叩いたりして対抗。

また、その強打者とクリーンアップとして活躍した「月に向かって」打った某強打者はオナラを一発ぶちかまして毒ガス報復。

また、これまた同球団で活躍した某打者は耳栓をして打席に入るバッターもいたり。コレはあまり上手くいかなかったとか…

中には、ノムさんと配球の当てっこをしながらホームランを打った世界記録を持つ「代打男」もおりました。

ささやき戦術が効かなかった選手

しかし、しかし

ごくごく少数ですが選手もいました。

代表的なのは王、長嶋。

王さんは打席に入ると雑談に応じるのですが

即座に集中力が高められるため、気持ちを乱されない。

長嶋さんはもっと凄くて、

「最近銀座行ってる?」と尋ねられて

「いやー、ノムさん。このピッチャーいいねぇ」とまるでトンチンカンな答えをするので

「長嶋だけは分からん(´・ω・`)」と思ったとか。

パ・リーグだと、元東京オリオンズの榎本喜八。

この人はもう打席に入った段階で自分の世界に没入しちゃっているので、全く通用しなかったそうです。

泥棒と書いて「トモ」と読む

ノムさんが現役時代の時、巨人はV9。

日本シリーズが近くなると、森祇晶さん(当時昌彦、のちの西武監督)がよくパリーグの出場チームの話を聞きに来たとか。

野球好きの2人、朝まで野球談義が続いだそうです…

また、情報だけでなく、森さんはスーツを作りまくるノムさんのクローゼットから「お、コレいいね」と言って勝手に持ってったそう。

同僚からはタバコの一本一本に『森』と書いていたと陰口を散々叩かれたかつてのV9名捕手。

これまた名将の広岡達朗の元で隙のないヘッドコーチを務め、その後任として西武ライオンズ監督で名将ぶりを発揮。

今はハワイで悠々自適の毎日だそうです。

げん担ぎ

現役引退後、ヤクルトの監督に就任、万年Bクラスのヤクルトを強豪に育て上げます。
そんな監督のげん担ぎは様々。

まずは球場入りする道順。占いで縁起のいい方位があれば、そこから球場へ入ることを考えたとか。

また勝ったときの道順を「縁起のいい道」として、翌日も通り、悪い時はわざわざ遠回りして行くこともあったそうです。

また、勝ってる時は同じパンツを履き続けた、とも。なんか臭そう…

もっとも愛弟子の川崎憲次郎さん曰く、「同じ(タイプや色)のパンツって意味だと思いますよ」と笑って話していました。

【追記】野村克也さんのインタビューをまとめた『弱い男』によると本当に、同じパンツをはき続けたとご本人の証言がありました。

次はカーブだよ!

ダブル不倫の末に結ばれたノムさんとサッチー!

2人の間には克則さんという「トンビが鷹を生んだ」ような2人のアクの強さからは無縁な息子が誕生しました。

高校を卒業したらすぐプロ入りを目指して、実際スカウトされたのですが、ノムさんの「大学に行って欲しい」という懇願もあり、我が明治大学に進学。

当時わたしのいた頃の明治ってあんまり強くなくて、どっちかというと負け続き。

それでも、克則さんは絶好調。

というのも…サッチーが、隣に座るノムさんのアドバイスを聞きながら、

「次カーブ来るよ!」と神宮球場に響き渡る大音量で野次ったから、だとか。

克則さん本人は意識しなくても、バッテリーはギクってきますわな…

亀理論

晩年のノムさんというと、キャンプ地をカートで移動したりと、あまり歩かないイメージがありました。

コレは独自の養生訓から。

曰く「カメはあまり動かないから長生き」というもので、自身『カメ理論』と名付けていたそうです。

野球では、緻密さがウリですが、単に動きたくないからじゃないの?という気もしますが…そういうところがまたノムさんらしい…

実は自分が3悪人!

楽天監督を退いたあと、著作でことあるごとに江本孟紀、江夏豊、門田博光を『南海の3悪人』と言ったノムさんですが、実は初代3悪人がいました。

それは…当のノムさん、同僚の広瀬叔功さん、南海の大エース杉浦忠さん。夜な夜な遊びまわり監督だった鶴岡親分の手を随分焼かせた、とか。

なんてことない、自分が悪人だった、というオチ。

ノムさんと言えば、野村ノートを始めとした「メモ」が有名。彼のメモ術をまとめた記事もあるので、ぜひご覧ください。

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ID野球を提唱し、90年代ヤクルトの黄金時代を築いた故野村克也さんの頭脳の源泉となったメモ術を書いていきます。

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