昭和天皇が大好きと公言するブログ主。Twitter (の方が通りがいいので)で
「そういえば、『皇居勤労奉仕の始まり』って需要あります?」と投稿したら、「ぜひお願いします」というありがたい言葉を頂戴しました。
皇居は今でも、全国から清掃奉仕を受け入れ、除草や清掃、庭園の作業をお願いしています。
半年前に団体で予約を入れるというハードルの高さにもかかわらず
年間1万人の方が清掃奉仕をおこなっています。
昨日までは上がりなしの9連勤だったこともあり、とにかく休みに入ったら…と資料を整理したら
天皇陛下と国民の相思相愛ぶりに、改めて深く感動した次第です。
そこで、現在も続く皇居勤労奉仕がどのように始まったかをツラツラと書いていこうと思います。
昭和20年5月、明治宮殿焼失
時間をちょっとだけ戻して、戦中の昭和20年5月25日。この夜の空襲で、皇居にあった明治宮殿が焼失しました。
元々皇居(当時は宮城)は爆撃対象になっていなかったのですが、皇居周辺の霞が関や永田町は火の海になり、そのトバッチリを食った形で焼け落ちてしまったのです。
宮殿焼失の翌日、その焼け跡をみまわった昭和天皇が、なんとか火災を防ごうとした特別消防隊19名が亡くなったことに
「戦争のためだからやむを得ない、それよりも多数の犠牲者を出し、気の毒だった。残念だったなあ」とお言葉を漏らしました。
この焼け跡、片づける余裕など、戦中だからもちろんなし。
戦後になっても、人手が足らずそのままになっていました。
祖父の明治大帝が建築した宮殿が全焼し、その跡地ががれきや草だらけ…そばで暮らす昭和天皇のご心中を察するに余りあります。
一歩外に出れば、皇居の各門を守るのは近衛兵ではなく進駐軍。
二重橋前の10万坪の広場は荒れ放題で
表通りは進駐軍の兵士とパンパンが腕を組んで歩く始末でした。
せめて、皇居の草刈でもしよう
そんな中、東久邇稔彦内閣で秘書官(今の官房長官)を務めた長谷川峻さんが、地元の宮城県栗原郡に帰った時のこと。
地元の青年団が「有志をつのって皇居の雑草を刈って天皇陛下をお慰めしたい」と相談を持ち掛けられます。
長谷川さんは、つてを頼ってアドバイスを求めたところ、
緒方竹虎から「皇居の清掃は聞いたことがないけれど、どんな組織にだって総務課はあるだろう。そこに相談しては?」と言います。
そこで、長谷川さんは青年団の先輩の鈴木徳一さんと共に、宮内庁を訪ねて申し出たところ
書類提出とか、審査をすっ飛ばして、いきなり「いつでもいいですよ。いつにしますか?」と2週間後に「清掃奉仕」の許可が下りてビックリしたと追想します。
…しかし、表向きはともかく
戦後GHQに首根っこを押さえられている日本において
コレに関しては、やっぱり受け入れる側も決心が要ったみたいで…2人を応対した総務課長の筧素彦氏は2人がやって来た時のことをこう追想しています。
「ただいま、坂下門に、宮城県栗原郡青年団代表、鈴木徳一、長谷川俊と名乗るものが、総務課長に会いたいと希望しているがいかがいたしましょうか」との連絡を受けました。
要件を聞くと、荒廃している皇居内外の清掃奉仕を許してもらえないかというものでした。私はこれを聞き、占領下にある現況を鑑み、大いに驚き、申し出の二人の決死の熱意の程を理解し、感動しました。
(中略)
当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の制肘(せいちゅう)、抑圧を受けている極めて厳しい事情の下にあるので、
こういう申し出をされるかたも命がけなら、それを受ける方もまた異常の覚悟を要する状態でした。
私は考えました。
いかに非常時とは申せ、これは一課長たる私一個の判断で決すべき事柄ではないかもしれない。
しかし、これを組織による意思決定の形をとったら、自分一己の責任は若干軽減されることはあるかもしれないが、
万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え、
(中略)
一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました。
……しかし、いかに己を空しくて熟慮断行するといっても、全く一人だけの知恵で思いついたままを行うことは軽率の謗りを免れません。
私としては、陛下が、地方へお出ましになれない現在、地方の人々が逆におそばへ近付き、接触を保ち、その誠意を披瀝(ひれき)する途を開くことは非常に良いことであると確信したので、
私が日頃尊敬信頼していた大金次官(後に侍従長)にこのことを内々ご相談しました。
当初は反対していた大金次官も、再三再四執拗に食い下がったところ、「君がそんなに熱心にいうなら、一切を君に任せる」と承諾して頂きました。
筧素彦回顧録『皇居を愛する人々 清掃奉仕の記録』(日本教文社編)
水盃を交わして、東京にやって来た奉仕団
首尾よく許可が下りたので、2週間後のために2人は着々と準備を始めます。
鈴木さんを団長、長谷川さんを副団長とする「農民みくに奉仕団」を結成し、準備に取り掛かりました。
一行は63名。そのほとんどが20代前半の青年でした。
しかし、当時は東京まで片道12時間を要する上に、宿泊や食事などは全て自分持ち。お金を出せばどこでもご飯が食べられるなんて時代じゃないから、全部持っていくことになります。
まして、作業に指定した日は12月8日でした。
太平洋戦争開戦日と重なっていてGHQからは団体行動禁止のお達しが出てました。
「時代に逆行する」ことをやったら、どんな事が起こるか分かったもんじゃない。場合によっては職場を追われるかもしれないし、命だって…
…その気持ちは受け入れる宮内庁側と同じだったようです。そのため、メンバーのほとんどは家族と「再び会えないかも知れないから」と水盃を交わして参加したそうです。
自分たちの食糧や清掃奉仕の道具、そして…みんなで少しずつ集めたもち米を使って作った
「お餅」を持参しての上京でした。
清掃作業開始、初日に両陛下が「ご会釈」
上京後に鈴木団長、長谷川副団長は宮内庁に着京の報告を行います。
そこで、草刈ではなく、焼け落ちた宮殿の片づけを手伝ってほしい、とお願いされました。
敷地としてはさらに内側で、2人は大感激。
しかし皇居に入った一行が目にしたのは荒れるに任せた残骸の山でした。
「なかに入ったら、豊明殿も焼けたまま、きれいな庭があったあたりはもうやらなに
やらでガチャガチャ、金庫なんかもひっくり返ったままだし……」
みんなで作ったお餅は筧総務課長に渡して、作業を開始しました。
「窓から天皇陛下のお姿が見えたら…」と淡い期待を持っていた長谷川さんでしたが
作業を初めて昼に差し掛かろうとするころに、人の気配を感じて団員が振り返ると…
昭和天皇が侍従次長を伴って、現場にやって来ました。
全員で最敬礼をしてから作業に戻ると、鈴木団長は「ちょっと来てくれ」と、天皇のすぐ前まで、呼び出されます。
当時の様子を鈴木団長はこう書きつづっています。
「このたびは外苑の草刈りに奉仕いたすつもりで参上いたしましたところ、特別のお計らいで皇居深く参入を許され御殿跡の清掃にご奉仕できましたことは無上の光栄でございます。青年たちもかくのごとく感激に打ち震えながら働いております」と申し上げると
「御苦労」というお言葉を更に賜り、
つづいて、「汽車が大変混雑するというが、どうやって来たか」
「栗原というところはどんなところか」
「米作の状況はどうか」
「どんな動機できたのか」など、いろいろご下問がありました。
ほんの4、5尺隔てて拝する陛下のお顔は、大変おやつれになっておられました。
お言葉の合間、時々軽く頭をおふりになるのも戦時中の極度のご心労とご激務のご疲労から来る軽い発作のためかと、お察し申し上げるにおそれ多いことでありました。
今年は米作は半作ですが、栗原の農民は少しもへこたれてはおりません。
草根を粉にして食ってでも強く生き抜こう、いま粉食の実践に一所懸命なことも申し上げた。
(中略)
約30分、私はご下問ごとに、ありのままを率直にお答え申し上げましたが、
そのつど「ご苦労」とか「ありがとう」とか仰せられ、
その後、ご政務所へお帰りになりましたが、その御後姿を拝し一同期せずして君が代を合唱しました。誰の目にも涙がいっぱい光っていました。
当時は君が代は、GHQによって「歌うな」と言われていたんですが、そんなことみんな関係なかったんですね。
その場を去ろうとした陛下が
団員の君が代を聞いた時、後ろ姿のまま歩みを止めてじっと聞き入っていたそうです。
そして、昭和天皇に促されたのか、この後香淳皇后もお見えになります。
この時は、女性団員が皇后にお答えする形になりました。
どんな物を食べていますか?という問いに「つめえりです」と答え、味噌汁に粉で作った団子を落とした食べ物だと知ると
香淳皇后は「東京ではすいとんと言いますよ」と返したそうです。
皇后陛下もすいとんを食べているんだ、と驚くと同時に大変感動した、ということでした。
…結局作業は1日伸ばして4日間。
最後は二重橋の前で整列。やって来た侍従次官が献上したお餅のことを話題にします。
「あなた方が持ってきた餅だが、皇居では国民からいただいたものを直接口には入れません。だから、頼んでアラレにしてもらって、皇太子殿下はじめ全部皇居に集めて『いま時、こういう人がいる』とお話になりながら食べましたから」
二重橋を出た後、一同は万歳をして帰途についたそうです。
この翌月、昭和天皇は年頭のご挨拶で「人間宣言」をしますけど…これはまた別の話があるので、ご興味のある人はコチラをご覧ください。
新聞に報道されて…さてその後どうなったか
この奉仕団の話は新聞社の知るところとなり、全国に発信されました。
おとがめは全くなかったそうです。それどころか…
事後報告の形で宮城県庁に行ったところ、議会の進行を止めてわざわざ県知事が「よくやってくれた」と一行をねぎらいました。
そして、日本の津々浦々から「我々もぜひ、清掃奉仕を」との申し出が殺到し、ピークの昭和26年には4万人がやってきたそうです。
戦争に負けた国なのに、天皇のところに奉仕団が続々とやって来る…この前代未聞の事態に占領軍も仰天し
誰の差し金だ?巨額の資金を使って、占領軍に対してよからぬ策動がなされているのでは??
と背後関係を洗ったものの、もちろんそんなものは一切出てこなかったそうです。
当たり前ですけどね。
現在の清掃奉仕は「タバコ」を貰わない
あと、この話をすると大体「恩賜のたばこ」は貰えるのか、という質問があります。
恩賜のたばこは、かつて清掃奉仕や警察官の警備などで貰う事が出来たたばこで、私も警視庁二勤務していた友人からもらって吸った事があります。
結構辛いタバコでした。
その恩賜のたばこなんですが、2006年に廃止になっています。理由はこの嫌煙化の流れですから「言わずもがな」ですね。
今はタバコにかわって「こんぺいとう」がもらえるそうです。
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