なんか、最近「日本のスゴイ人列伝」が読者の皆様にやたら高評価を頂きまして、
ホントに嬉しいかぎりです。さて、今回紹介する人はブータン農業の父、西岡京治(1933~1992)さん。
彼の仕事は日本の国際協力事業において最も成功した例として、今も伝説となっています。
東京オリンピックの年に、秘境ブータンへ
西岡さんが海外技術協力事業団(現・国際協力機構)の農業指導者としてブータンに赴任したのは昭和39(1964)年。
前の東京オリンピックのあった年です。
大学時代の恩師からの話に、喜び勇んでブータンに向かった西岡さんでしたが、
現地に到着してみると、意外な対応に戸惑います。
当時ブータンはインドとの国交だけしかなく、インドから技術指導を受けていたのですが、
ブータンの農業が従来の方法を改めないと、ハナから匙を投げていたらしい。
それでも四方八方に働きかけて、最初与えられたのはたった200㎡の農場で、実習生は3人。
しかも彼らは12,3歳の少年たちでした。
「期待の高さ」が伺えるような待遇でしたが、論より証拠と西岡さんは大根の栽培から始め、これを実習生に丁寧に教えていきました。
大根は温度差が大きい土地でよく育つから、ヒマラヤの南に位置するブータンに合うのではという考えからですが、これが見事に的中。
3ヶ月後には、それまでブータンの人が見たこともないような立派な大根が収穫されました。
その噂はブータンを駆け巡り、タネを分けて欲しいと人々がやって来ます。
ついに噂は王様の耳にも届き、翌年に試験場は一気に3倍の広さになり、
当初2年の任期となっていたところが、国王たっての頼みで任期延長。
農場も1年目の400倍、8ヘクタールに拡大されました。
稲の植え方を変えて、収量40%アップ
大規模な試験場が手に入ったころから、西岡さんは稲作の技術指導に取り掛かります。
当時のブータンは稲をテキトーに植えていたものを日本のように規則正しく植える「並木植え」を推奨。
これは、風通しを良くし、除草をしやすくする効果があるのですが、
当然デタラメに植える従来の方法より手間がかかります。
農民にとっても長年、やってきた方法を変えるのには抵抗がありました。
試験場で並木植えをやってみせ、粘り強い説得の末に地元の農民がこの並木植えを取り入れたのは1971年。
その差は歴然で、いきなり40%の収量増を達成しました。
効果が上がれば、みな我も我もと導入しました。
「農民の気持ちを変えることが大事」という、西岡さんの言葉通り、現在ブータンでは並木植えは完全に定着しています。
見放された地、シェムガン県開発に着手
そんな折、西岡さんを信頼していた国王ジグメ・ドルジ・ワンチェクが崩御。
その息子ジグミ・シング・ワンチェクが4代目ブータン国王として即位します。
若干16歳の国王は、先王の信任の厚かった西岡さんに「見放された地」シェムガン県開発を依頼します。
シェムガンは水が乏しく、谷に分断された急斜面の土地がほとんど。
現地の人は焼き畑農業でカツカツの生活をしていました。
1976年にプロジェクトがスタートしますが、
現地の人々は一度失敗したらみんな飢え死にになってしまうので、焼き畑農業を続けざるをえないという事情を持っています。
だから、西岡さんは現地の人と話し合いの場を持ち「稲作への切り替えこそ、貧乏脱出の切り札である」と熱く訴えました。
その回数、実に800回。
現地の人々もその誠意と粘り強さに信頼を強め、プロジェクトは力強く進んでいきました。
竹や塩化ビニル管といった、現地でも入手できる材料を使って水路を引き、斜面に無数の棚田を作る。
谷には、現地のつり橋技術を使ってワイヤーロープの頑丈な橋を架けました。
5年後には1.2ヘクタールだった水田が50倍の60ヘクタールになり、シェムガンはブータン有数の穀倉地帯へと生まれ変わりました。
このプロジェクトのために17本の橋、360本の水路、300キロの道路が建設されましたが、これらは地元の人々が維持可能な技術を用いて整備されました。
そのためこれらは、驚くほど低コストであるうえに、現地の人がメンテナンスできるもので、これが結果として現地の人々の間に技術が定着する大きな助けになっています。
西岡さんの「開発の主役は地元の人であり、その身の丈に合っていないと根付きはしない」という
技術移植の哲学が、日本の国際協力事業史上、最も成功したこの事業を支えていたのです。
換金作物の栽培や、農機具修理の指導まで…
1980年、これまでのブータンでの功績を認められ、
西岡さんは「最高の人」を意味するダショーの位を授与されます。
これは県知事や裁判所の長官といった政府高官クラスに与えられるもので、もちろん、西岡さんが外国人初。
その後も、リンゴやアスパラガスといった「売れる」作物の栽培指導や、より多い収量を得られる稲の新品種開発、導入。
農業機械の整備技術者の育成まで、ありとあらゆる方面でその力を尽くしました。
結果、西岡さんが来たときには60%だった食料自給率は、28年間で86%にまで上昇。
また、彼の育てた人材はブータン農政の要職に就くようになり、ブータンは見事独り立ちを果たしました。
そのことに安堵したかのように、日本への帰国が見えてきた1992年に西岡さんは敗血症で急逝。
享年59歳でした。
奥様の意思で現地で国葬にされ、彼は今も農業試験場を一望できる場所に眠っています。
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