この記事では、私が実践している読書メモ術を紹介します。
何年か前から、作家の佐藤優さんに影響を受けて、
新聞や雑誌、本を読んで「これは!?」と思った部分を大学ノートに書き写すようになりました。
そういえば、本を読んでて「アタマに残らない」という悩みを持つ方が意外に多い。
私なんかは「忘れられるのが脳のスゴいところだ」と開き直っていますが、
もし、アタマに残しておきたい部分があったらこの「読書メモ」を試してみてはいかが?
読書メモと言っても「ただ書き写す」だけ
やり方と言っても、特別なことはありません。大学ノートに一文一文書き写していくだけです。
出来るだけ余白は作っておくといいです(後で書き込みができるので)
で、たまに読み直して、思いついたことや
自分の中で考えが深まったところを行間や欄外に書き加えていきます。
欠点は…想像できると思いますが、黙読で読んでいくのに比べて、猛烈に手間がかかります。
だいたい、一面コラムで15分ほど、文庫本の1ページ分なら1時間弱、というところでしょう。
私なんかはメモを取るのは一回通読した後、「アレ、取っておきたいな」という部分が見つかった時です。
メリットは…アタマによく入るから!
メリットはもちろん「アタマによく入る」から。
それも、一読しても、いまいちイメージが掴めないもの、難解で硬いもの、国際情勢、哲学や宗教など、よーく考えなきゃいけない内容を消化吸収する上で極めて有効なんです。
また、目の動きだけでは捉えきれないところも捕まえられるのもいいですね。
手で書き写すと、当然その文章をじっくりと読む必要があります。書き写す時に一旦アタマで反すうして、書く。
だから熟読をさらにレベルアップさせるような読み方になります。文章の中から、筆者の感情がほの見える時すらもあります。
さっきも書きましたが、書きっぱなしではなく書き溜めたメモを見直すと、今の自分の頭にある別の知識、経験と結びついたりします。
それも、ノートに書き込みます。「質より量」で片っ端から読みまくる、という方法もあり、私も否定はしませんが
自分が「何となくいいな」と思った内容は、ノートに書き貯めておくと、「本を深く読む」という感覚が掴めるので、おススメですね。
実例①「氏姓制度」を一気書き!
これは以前のブログから。
一度読み終わった『いっきに学びなおす日本史』から氏姓制度についての解説を、専用の読書メモノートに書き写していきました。
この氏姓制度は、私たちの時代とは離れすぎてて中々理解が進みませんでした。何回となく繰り返し繰り返し読んで、なんとなくこんな感じかなぁ…
というところで先に進んだ記憶があります。しかし、やはり筆写という「手間」をかませると、それなりに理解が進むようで、結構スッキリ頭に入ってくれました。
さらに…知識が熟成し進化する
そして、面白いのが書き写したものは時間が経過するほどに、
脳内で他の知識と結びつくんです。
誰かと話をしている時に、自分の中でバラバラで無関係になっていた記憶が一つのまとまりになって口から出てくる…
そんなコトあると思うのですが、アレに近い事が起こります。
面白い事にこれが、頭に入った時は全然関係がない事が繋がってくる。
実例②落語から仏教、スーダラ節へ
例えば、立川談志さんの言に
「落語とは人間の業の肯定である」という言葉があります。
確か弟子の談春さんの『赤めだか』という本で読んだと思うのですが、これが…
別のところで、仏教学者釈徹宗さんのコメントに繋がってくる。
「落語の起源は、仏教法話の中だるみを防ぐために挿入したおかしい話だけを集めて膨らませたもの」と釈さんは話していて、「それなら、仏教の解脱って人間の業を脱する」ことが最終目標ですから、
落語が「業を抜け出せ切れない自分を笑う」のは全然おかしくないですよね。
さらに、そういえば…と
植木等の「スーダラ節」に繋がってくる。
で、調べてみると、ネットにスーダラ節の解説を発見!!
タレント活動では無責任なキャラクターを演じていた植木等さんでしたが、
根はすごく真面目。「スーダラ節」の歌詞を初めて渡された時にこんないい加減な歌嫌だな…と思いお父さんに相談します。
浄土真宗の僧侶だったお父さんが歌詞を聞くと「コレは素晴らしい!親鸞上人の教えに通じるぞ!」と大絶賛!!
スーダラ節って「(バカな事だと)分かっちゃいるけどやめられない!」ってテーマですよね。
親鸞上人は、亡くなるまで仏教でやっちゃいけない、と言われている事を全部やった、この歌はその生き方に通じる。
上出来だ、頑張れ!と励まされたとか。人間の矛盾を突いたテーマだ、と指摘されてガゼン頑張ろうと感じたそうです。
…とまぁ、こんな感じで様々な記憶、知識が有機的に集まってくる。コレもまた、書き写しの効用でしょうね。
実例③テロと文化の受容について
「読書メモ」といいますが、新聞記事でも気になるものを書いています。
ここで取り上げるのは佐藤優氏の書いた東京新聞の『本音のコラム』。2019年4月21日にコロンボで起こった連続爆発について取り上げていました。
イスラム過激派による容疑が濃厚なこの事件に対し、キリスト教徒側は聖戦思想ではなく、非暴力で平和を作り出すキリストの教えをもって対処して欲しい、と論じた佐藤優さんのコラムです。
これに、たまたま「いっきに〜」を開いた時に目に入ったのが文化を受容する際の「3つの条件」。
その「3つの条件」とは
①能力…幕末に欧米近代文明を受容できたのは、その下地となる合理的な思考があり、技術に関する理解も出来たから。
②必要性…元寇の時苦しめられた「てつはう」はほとんど省みられることがなかったのは、集団戦が一般化していなかったから。集団戦が定着した戦国時代に入った「鉄砲」は数年を経ずして国内生産が始まった。
③受容するに際して、受容される側の主体的条件によって選択がなされ、変更が加えられる…仏教が受容された時、呪術的要素から「鎮護国家の仏教」が、一方は「土着信仰と結びついた仏教も現れた」
というものです。
ここで大事なのは爆弾テロを聖戦思想で動うのは、イスラム教の中でも原理主義の、それも極めて過激派に属するメンバーである、という事実です。
圧倒的大多数である「穏健派」と共闘するためには、
かつての十字軍のような、排除の論理でなく、共存の論理を用いていかないと、敵を増やすだけだろう、と。
①の理解を通して、異教徒の穏健派同士が結びつき、どっちのためにもならない過激派の台頭を封じ込める、という考え方になるのかなぁ、と。
ちなみに、この読書メモの原型はこの本の方法を自分なりに試行錯誤して使ってます。
興味のある方は、ご参考までに。
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コメント
こんばんは(^。^)初コメです
先々週ぐらいから記事を拝見しています。
前ブログの方も1から楽しく読ませてもらってます。全部読み終わるのがいつになるかは分かりませんが…(汗)とくに語学の勉強についてのお話が興味深くて、感謝しながらくいいるように見てます(笑)
貴ブログの記事に感銘を受けて「國弘流 英語の話し方」を買ったので、英語とロシア語頑張りたいと思います!
最近暑いので、体調にお気を付けて過ごされてください!いつもおもしろい記事をありがとうございます!
>ひょっとこ様
初コメントありがとうございます。
また、過去の投稿までさかのぼっていただき、重ねてお礼を申し上げます。
僕は語学を下手の横好きでコツコツやってきました。
多くの失敗を含め、様々な試行錯誤をへて現在に至っております。
ですので、もし記事の内容に疑問を感じたら、ぜひ質問をお願いします。
ロシア語は僕も大変興味があります。
僕も早く英語に一区切りつけて、以前やった中国語、ロシア語と手を広げたいのですが、まだまだですね。
語学はやればやっただけ楽しいですよ。英語とロシア語、頑張ってください。