忘却の彼方から蘇った「フランス料理の伝道者」~サリー・ワイル物語を読む

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最近、時間はあるのに読書がはかどらないという毎日ですが、本はやっぱり手放せない。

どこかに出かける時でも、この本を携えて読んでいました。

この本「サリー・ワイル物語」は日本に本格的なフランス料理を伝えた、サリー・ワイルという横浜のホテルニューグランデの初代総料理長

サリー・ワイルの生涯を追った本です。

彼の名前を知らなくても、ご飯にホワイトソースをかけ、チーズをのっけて焼く料理「ドリア」はご存じかと思いますが、

このドリアを初めて作ったのは、ホテルニューグランデにいた、サリー・ワイルなんです。

ホテルニューグランデの「ドリア」*同ホテルのホームページより引用

彼は日本にいるとき、多くの弟子を育て、料理を志す若者たちを啓もうした…

だから、有名人だと思ったんですが…本を探すと、なぜかこの本しかヒットしない。

なんで?と思って読み始めたら、分かりました。

なんと…著者はまず、ワイルの墓を探すことから、その旅を始めなければならないほど「忘れかけられていた」存在だったのです。

 

彼は、戦後スイスに帰ったのですが、シェフとしてのキャリアに戻れず、食料をホテルにおろすセールスマンとして働いていました。

そんな雲をつかむような中で著者は、しつこく調べていくうちに、彼の親戚に出会い、処分しようと思っていたワイルの資料をもらい受けます。

また、国内で、ワイルに縁のある人々を訪ね歩き、忘却の彼方に去りそうになるワイル像を再び、本の中で蘇らせていくのです。

 

その資料から浮かび上がったのは…彼が横浜に導かれた理由でした。

彼は戦前は、ヨーロッパ各地を転々としながら、修業した店のシェフから発行してもらうセルティフィカ(経歴証明書、とでも訳すべきか)を手に

自分の道を切り開き、関東大震災後に造られたホテルニューグランデに料理長として招かれます。

横浜は、当時は外国人居住者が多くいる街で、そこの目玉として生まれたホテルの料理人として最先端の技術を発揮する料理人だったわけです。

しかし、太平洋戦争の時代になると、ながらくシェフとしての腕のふるいようがなく、戦中の外国人ならだれでも経験した、我慢の時を重ねることになり

帰国後はそのブランクがあって、シェフとしてのキャリアを全うできなかったようです。

 

そんな彼ですが、海外で腕を磨こうとする日本人の若者に修業の機会を与えてくれる「スイス・パパ」として戦後は活躍します。

きっかけは10年ぶりに訪れた日本で、彼の元教え子たちが活躍している姿に大いに感銘を受けたから、のようです。

しかし、彼はすでに、一介のセールスマンに過ぎませんでした。

それに、ブランクが開けば開くほどに、日進月歩の料理界では、その技術が陳腐化して、時代遅れになる厳しい世界でもあります。

おそらく、晩年のワイル氏もそういう「元料理人」であったと思われます。

だけれど、彼の歩んできた道…すなわち、小さな食堂から修業を始めて

仕事を覚えてセルティフィカを取得し、それを使ってさらに自分の腕を磨く、という方法を教えることで、

フランス料理を志す若者の背中を押していきました。

彼自身の技術は古くても、修業の仕方を教えて、個々が腕を磨く道は決して古くならない。

このルートを使って、日本のフランス料理界はさらに、ブラッシュアップされ、後に「ヌーベル・キュイジーヌ」という新たな潮流が誕生することになるのです。

 

かつて、自分の腕で人を喜ばせる料理を提供した「伝説の総料理長」は、

料理界にはとどまらなくても、日本人たちに「修業の道筋」を教えて数多くの料理人を羽ばたかせる「スイス・パパ」として、

愛着深かった日本への恩返しを続けた姿…それが、人生のキャリアに折り返した

ブログ主の気持ちにグサグサと刺さります。

すごく読み心地のいい、一冊ですので、ぜひ読んでみて欲しいですね。

最後まで読んでいただきありがとうございます。ブログ主のモチベーションになりますんで、この記事が面白かったらTwitterリツイートやシェアボタンで拡散、よろしくお願いいたします。

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