ハロートレーニングに平日通い、日々念願だったパソコンの勉強に精を出しています。
そんな中でも、本だけは手放せない私でして、先日はこの本を読了しました。
高橋ユニオンズは1954(昭和29)年から1956(昭和31)年までのわずか3年間だけ存在した日本のプロ野球球団(パ・リーグ所属)です。
この球団、綱島理友さんの「ボクを野球場に連れてって」(この本も面白かった)で紹介されていたんですが
ザックリとプロ野球史を語る中で紹介されているので、
「悲惨」の一文字で表されるような球団史をたどりました。
当時パ・リーグは、7球団制をしきセ・リーグに対抗しますが、奇数だと試合が組めない球団が出てしまう。
そこで、勝率3割5分を下回ったら、その球団は解散!とやったが、そんなのみんな嫌だから全球団がクリア。
じゃ…と言って当時大映スターズ(現千葉ロッテマリーンズの源流)のオーナー、永田雅一さんが
実業家の高橋龍太郎さんを口説き落とし「親会社なしの個人球団」を発足させました。
これが高橋ユニオンズです。
…ところが、この永田さんメチャクチャ口が上手いけど、空手形ばっかりの困った人で
口からとっさに「各球団から主力選手を提供する」と説得したのに、実現せず。
各球団から提供されたのは、戦前から投げているヴィクトル・スタルヒン投手のような超ベテラン(マイルドに書いています)や、
人間関係に難がある(超マイルドに書いています)選手ばかり。
そんなわけで、球団の通算勝率3割4分という、イチローのNPB通算打率(3割5分3厘)よりも低い弱小球団でした。
そんな球団だから、スタジアムは連日、閑古鳥。
球団拡張した結果、観客動員数が低下し、球団拡張こそがパ・リーグ繁栄の計だと「ラッパ」を吹いていた永田さんは
その舌の根も乾かぬうちに6球団制にする、と言い出す始末で、ついに1957(昭和32)年のキャンプ中に解散となりました。
しかし…じゃ当の高橋球団にいた選手たちは、というと一生懸命に野球をしてたし、オーナーの高橋さんも私財を投じて球団運営に当たっていたわけです。
そんな、内側にいた人間たちの群像劇がいっぱいに詰まっているのが本書「弱小球団高橋ユニオンズ青春記」。
遠い記憶を語る、かつてのユニオンズ選手たちからは「弱かったけれど楽しかった」という思いで話が語られます。
勝率3割5分を下回ると罰金、というリーグ規則をクリアするために、はるか格上の相手から勝利をもぎ取ろうとする選手たち。
「弱いからこそ、チャンスだ」と奮闘し、21勝をあげた伊藤四郎(伊東四朗さんではない)投手や、
新人安打記録を塗り替えた佐々木信也さん(プロ野球ニュースでキャスターを務めていたあの、佐々木さんです)などが躍動しました。
高橋オーナーも、自分の球団に強い愛着を感じて、スタジアムに通い、最後まで選手たちを応援し続けました。
青春記、という言葉がタイトルに付いているように、この球団は客観的に見れば悲惨なのですが
選手の側から見た3年間は読んでいて、本当に爽やかな読後感を与えてくれます。
若い頃は成功した人がえらくて、失敗した人は努力が足りねぇ…とまぁ、一丁前なことを考えていたわけなんですが
実際オッサンになるまで生きてみたら、まぁ「一生懸命やったけどダメでした」ってことが実に多いと感じます。
当時はもう、思い出したくもなかったはずなのに、老境に至って懐かしく振り替えられるようになった…当時の選手のひとりはこう語っているのですが
それは、おそらくその人が「野球選手としての自分」からの人生をキッチリ生きて来たことの裏返しのように見えてならないのです。
「負け確」な会社(新聞社)を支えるために頑張って、力が及ばずに会社がなくなった自分からすると、自分もいつか、そう思えるように
この「祭りの後」をキッチリ生ききってやらなきゃなぁ、と思ってしまいました。
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