この記事は、昭和21年から昭和29年まで行われた「昭和天皇の戦後巡幸」のエピソードで、ブログ主が厳選したエピソードをご紹介します。
戦後巡幸が始まったきっかけは?
太平洋戦争の終結後、日本は国土が荒廃し、バラック暮らしを余儀なくされる人も多い時代でした
また戦地や満州などからの引き上げ者たちなども加わって、本土の人口は増加する一方で台湾などの穀倉地帯を失い、食料は不足。
衣食住、すべてに事欠く中で、多くの国民が必死で毎日を過ごしていた時代です。
自らの意志で終戦を決断し、一時は退位も考えた昭和天皇でしたが、自分が今やるべきは
荒廃した国土で立ち上がり、また傷ついている者を慰め、励ますことだと考え
(当時アメリカの施政権下にあった沖縄を除く)全国を視察し、激励して回りました。
視察日数165日、総距離は日本一周を上回る33,000キロメートル。
直接声をかけられた人数は、2万人に上ると宮内庁は回顧しています。
『昭和天皇巡幸』から、エピソードを厳選
この戦後巡幸における種本をまず、ご紹介します。
それは、昭和天皇巡幸編纂委員会『昭和天皇巡幸』(創芸社)です。
この本が本当にすごくて、
インタビューを受けた人がご巡幸で昭和天皇に会うまでに
どんな境遇で、会ってどのような言葉を受け、その後の人生をどう過ごしたか…というエピソードがこれでもか!?と詰め込まれています。
今回は、「すごいエピソード」「泣けるエピソード」「笑えるエピソード」をご紹介します。
陛下が来たら、採炭率50%アップ~福島常磐炭田
当時、食料に次いで、増産が急がれたのが石炭。
ところが、人員不足と食糧難のため、増産が中々はかどらなかった時代でした。
昭和22年8月、「食料の増産は夏にかかっている」との思し召しから、東北地方への巡幸を行った昭和天皇は、その第一歩を福島県の常磐炭田に記されました。
この常磐炭田、後にスパリゾートハワイアンズが作られる場所で、地熱がすごい。
炭坑内は最先端の切り場になると、温泉が湧きだし、それを排出するパイプも熱を発し、炭坑内は60度を上回るという…今の夏の猛暑すら上回るすごい環境。
坑夫たちは上半身裸でふんどし一丁で作業に当たる場所なわけです。
視察用に新たな切り場(地下450メートル)を設置して、陛下をお迎えすることになったのですが、それでも40度を超えるという厳しい環境に変わりはなかったそうです。
昭和天皇はソフト帽に背広の上下、コレを崩さない。暑いだ寒いだ一切言わず、笑顔で励ます
坑夫たちもまさか、ここまで陛下が降りてくるとはと驚きつつも感激。
陛下に「日本再建のため一生懸命やります」と答えた常磐炭鉱は、
採炭率が前年比50%上昇というちょっと目を疑うような数字をたたき出し、翌23年、政府から表彰されたとか。
その後、九州の炭坑にも足を運ばれましたが、
坑夫たちから湧きあがった「万歳」の嵐に、ご自身も手を挙げてお応えになったエピソードもあります。
車?馬?それともジープ?開拓村へ昭和天皇がやって来た!
今の長野県軽井沢町、大日向地区は満州からの引き上げ者たちが開拓した地区。
満州と言えば、戦後ものすごい苦労を重ねて、それこそ着の身着のまま、日本に引き揚げてきたとはご存じのはずです。
彼らは元の村に戻っても生活が立たないので、カラマツ林だった軽井沢を開拓。
とりあえず、カエルやヘビなんかでも食べて飢えをしのぎ、カラマツの木を切り倒して根っこを掘り起こし、ソバを植えて開拓に励んでいた。
もう、大変だとか、辛いとか言ってる場合じゃなくて、とにかく生きるのに必死。
そんな村に昭和天皇がやってくるという知らせが届いた。
…当日、「天皇陛下は何に乗ってくるか?」が話題になり
「車かな?」「馬に乗ってかな?」「道が悪いからジープを使うかも?」と到着を待つ間、ひとしきり盛り上がった。
村民の予想は全部ハズレ。
なんと、昭和天皇は山道を2キロ、歩いてやって来た!!
平地の道じゃないよ、山道ですよ、山道!
故郷で食い詰めて、分村で満州に渡ったものの、戦後満州を死ぬか生きるかの思いで脱出し、故郷に戻ったものの、食い物は無く
何にもないカラマツ林を開墾し、やっとの思いで毎日を過ごしている
そんな我々のところに、天皇陛下は歩いてでもやって来た!
出迎えた開拓団の団長は感動のあまり、涙で奏上がとぎれとぎれになったと言います。
当時の子どもたちは「一生懸命勉強してね。立派な日本人になってください」という陛下のお言葉を
女性のようなやさしいお声…今思うと、陛下はこんなに苦しんだ子どもたちを出して済まない、というまなざしで見ておられたなあ
と追想しています。
開拓団員は陛下のあとを慕ってどこまでも山を下り、名残惜しそうに万歳を唱えていた、そうです。
石段の下までみんなで…
これは、入江相政侍従長の著書『天皇さまの還暦』に書いてあったエピソード
昭和24年5月22日、佐賀県の因通寺での出来事です。
山の上のお寺でお別れをして、長い石段を下りて行かれる昭和天皇。
そこの孤児院で養われている子どもたちは、一緒に石段を下りていって、昭和天皇の右や左にまつわりついた。
親を失って天涯孤独の身だから、昭和天皇と会ううちに親に慈しまれるような気持になったんでしょうね。
結局、石段の下の坂道でお車にお乗りになった昭和天皇に、みんなで並んでもう一度「さようなら」と手を振り続けたそうです。
『天皇をお迎えする歌』にニッコリ
6月8日には、大分の児童養護施設、別府小百合愛児園を訪問。
そこでは、園児たちが元気よくオリジナルの「天皇をお迎えする歌」を歌ったそうです。
♪光の中につつまれて
にっこり笑って立っている
あの子もこの子もだれもかも
天皇陛下のおでましを
足ふみしながら待っている
新しい国日本の子どもはみんな朗らかだ
(以下略。作詞・西田ミチ子修道尼、作曲・マルテル師)「昭和天皇巡幸」P.192
両親を失って生活しているにもかかわらず、元気に歌を歌って迎えてくれた
園児たちの明るい姿に昭和天皇は本当にうれしそうで、
歌に合わせて頭を振って調子を取られていたそうです。
特に「新しい国日本の子どもはみんな朗らかだ」のくだりには
「そうだ、そうだ」というように深くうなづかれたそうです。
その日のスケジュールを済ませ、宿舎に戻ったあとも
「あの歌の作詞作曲は誰だろう」と侍従に尋ねられるほど、大変に気に入られ
翌日さっそく、歌詞と曲譜をお取り寄せになられたとか。
毎晩ウナギ責めに、陛下も苦笑
好きなモノでも、毎日食べる…となれば誰でも流石にウンザリするもの。
1947(昭和22)年11月、昭和天皇が北陸地方をご巡幸になった時、
福井県敦賀の宿舎での夕食時のこと。
好物のウナギのかば焼きが山盛りで出てきた。
普段は腹八分目を旨とする昭和天皇だったが「残しては申し訳ない」とキチンと全部食べた。
すると翌日地元の朝刊で「天皇陛下、山盛りのウナギをペロリ」と書かれてしまったから、さあ大変!
翌日宿泊した武生でも、その翌日お泊りになった芦原温泉でも、つぎつぎにウナギが出る。
宿泊先の人の「おもてなし精神」の発露でもあるし
こんな事で怒ると誰かが責任を取らされるから、
「新聞に出たんだから、毎晩ウナギが出るよ」と陛下も苦笑いした。
村娘、山道で陛下にバッタリ…
新潟でのお話…
その日、村の娘二人がキノコ採りに山に入って、結構取れたと大喜び。
帰り道に話題になったのは、天皇陛下の話題。「この辺においでになってるってね」「何食べてるんだろうね?おはぎとか召し上がってるんかねぇ」とか
軽口をたたきながら山を下りていたら、
街で写真店を営んでいる知りあいが山道を上がって来た。
「あれぇ!?」と思うとその後から大人数がズラズラと後を付いてくる。
「今ここに、陛下がおいでになるから、あんたらここに立っててくれ」と写真屋さん。
えーっ、と2人。そりゃそうだ。
山に入ってるからフツーのモンペ姿だし、おめかしなんかしてるわけない。
しかし、道の片っぽは山だし、反対側は崖だしで隠れるに隠れられない。
観念して傘を脱いで待ってると、陛下がやって来た。籠に入っているキノコを「これなあに?」と尋ねた昭和天皇。
「…アワタケ」
「ああそう、これなあに?」
「ズボタケ」と答える村娘2人。
昭和天皇は植物とか、動物が好きだから、
もしかしたらキノコの種類もご存じだったかもしれないんですが
…キノコの名前って地方によって違うから、ホント純粋な気持ちで尋ねたんだろうなとブログ主は推察しますが…
「いっぱい採ったね、気を付けてね」と昭和天皇と別れた後…
この2人のことが話題になり「天皇陛下にお会いしたから、きっといい縁談が降って湧いて来る」
と噂されたとか
「どうだかね」と当時の村娘のお2人はのちに笑っていたそうですが
…まぁ、こういうのはね、笑っているってのが、答えってもんでしょ。
「ああ、そう」だけでない!ご巡幸のお言葉集
昭和天皇のモノマネというので、ド定番が「ああ、そう」なんですが、実はご本人もいい返事ができないかと側近と相談しながら、少しずつ声をかける言葉のバラエティを増やしています。
千葉県銚子においでになった時は、仕事を終えて帰って来た漁師に
「どうだ、とれたか?」と声をかけ
「こんなに獲れました!」と漁師が答えると「大漁だね」と応じてニッコリとされる一幕もありました。
また、原爆投下で塗炭の苦しみを味わった広島では、奉迎場を設置して、市民五万人が参加しました
ご会釈だけでなく、ご巡幸で初めて
…広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない
と一段上の対応「お言葉」で広島市民に語り掛けられました。
また、長崎では被爆者救護のために活躍し自らも被爆、闘病していた永井隆博士と面会。
「あなたの本は読みました」と声をかけて、同席していた永井博士の子どもたちに
「しっかり勉強して、立派な日本人になってください」と話しました。
これは、永井博士の子どもに限らず、巡幸中子どもたちに多く使われたフレーズです。
この時が、国民と天皇が一番近かったかも…
とまぁ、エピソードを書いてきたわけですが、もうどのエピソードを読んでも、
すごく温かい気持ちになるエピソードが満載で、
今回この記事を書くにあたって、泣く泣く割愛するエピソードなんて山とあるわけです。
だから、この記事を読んで、他のエピソードが気になったらぜひ、この本を読んでみてください。
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