この記事では、昭和天皇(これ以降は「迪宮裕仁殿下」)の幼少期に向き合い
その後の陛下の人生に大きな影響を与えた3人の大人について書いていきます。
世の中には「鉄は熱いうちに打て」という言葉がありまして…幼少期に受けた影響というのは決定的に大事な要素になってきます。
まして、迪宮裕仁殿下は将来天皇として、日本を背負って立たなければいけない重要人物。
彼らがどんな思いで、「未来の日本」を育んだか、それを書いていこうと思います。
明治天皇の命を受け「実の孫」同様に躾けた爺…川村純義
最初に取り上げるのは、迪宮裕仁親王の最初の養育係、川村純義。
彼は、薩摩の出身で従兄弟の西郷隆盛に可愛がられ、主に海軍畑で手腕を発揮しました。山縣有朋と異なり政治の世界とは一線を画し、
はっきりものをいう性格から、明治天皇の信任が厚い人物でした。
迪宮が生まれて70日後に、明治天皇は孫を川村純義に託します。
明治天皇からは「自分の孫だと思って、存分にやれ」と言われます。
そして川村が立てた育成方針は以下の通り
一、心身の健康を第一とすること
二、天性を曲げぬこと
三、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと
四、難事に耐える習慣をつけること
五、わがまま気ままのくせをつけないこと
そんな計画を立てたとしても、相手は頑是ない子どもです。
イヤイヤ、とわがままを言ったりしても珍しい事ではありません。
姪っ子を相手にしていると激甘なオジサンと化してしまうブログ主には本当に耳が痛い。
だけれど、さすが川村さん。信任を受けた明治天皇に報いるために
そんな容赦は一切しませんでした。
ある日の夕食時、迪宮はお膳に嫌いなものが出されたのを見て「これ、いやっ」と箸を投げ出しました。
すると川村は「嫌なら、お食べにならなくてもよろしい。爺は、もうご飯をさしあげません」
と強く言ってお膳を下げてしまったそうです。
…しばらくして、お腹が空いたんでしょ。迪宮がすすり泣きを始め「食べる、食べる」と言い出すと
川村はまた黙ってさっきの夕食を前に差し出し
今度は迪宮も素直に箸をつけた、といいます。
以降、怖い爺の前で食事を残すことは一切しなくなったそうです。
川村は迪宮が3歳の時に、67歳で逝去。
この時期のことを、後年昭和天皇は「川村との思い出はあまり記憶がない」と振り返りましたが
昭和天皇の生涯を振り返るとき、
この育成方針そのままの人間に育っていることからも、この時に受けた教育の影響が絶対に出ていると私は思います。
母同様と言われ、迪宮の「生物への興味」を育む…足立たか
川村の逝去後は弟の淳宮(後の秩父宮)と共に皇孫御殿で育てられた迪宮。
ここで出会ったのが、生涯「母同様に親しくした」と回想していた、足立たかです。
彼女は本物の幼児教育のプロフェッショナル。
最新の幼児教育を実践する姿勢を見込まれて、皇孫御殿に出仕し幼い皇孫殿下たちを養育します。
彼女も、何か良くないことをしたり、いたずらをすると厳しく叱りつけるのは、川村純義と同様に厳しかったのですが
彼女は生物に強い興味を示した迪宮の「物事を調べる姿勢」を育んだ人物であります。
御殿や、静養先で何かを見つけると「これなあに?」と聞かれます。
子どもたちにとって周りにあるもの全てが不思議で、すべてを知りたがる。
これは誰しもが備わる資質ですが
たかは、その気持ちをなおざりにしませんでした。
彼女は生き物の名前を聞かれると、図鑑を取り寄せて迪宮に与え「自分で調べる」ことを教えます。
それでも分からないと、知り合いの学者に手紙を出して「間違いのない」情報をとりよせたそうです。
後年、昭和天皇は自身の研究について「天皇の職務に対して苦しかった時、
生物の研究に没頭することで随分と助けられた」と回想しています。
厳しく育てつつも、「生物への興味」という芽を見逃さず、終生の生きる力へのステップに育てたのは、このたかかも知れません。
命をかけて、帝王学を叩きこむ…乃木希典
学習院初等科に入学した迪宮が、もっとも尊敬を寄せた人物は
学習院の院長を務めていた「院長閣下」こと乃木希典でした。
乃木は日露戦争の旅順要塞攻略戦で功績を立てたものの、兵士たちに多くの犠牲を出したことに申し訳なさを感じていました。
しかし、明治天皇は2人の息子を失った乃木を気の毒に思い、またその高潔な人柄が教育者に向いていると見込んで
明治40年に学習院院長(校長)に任命したのです。
そんな乃木は、将来の天皇に対してもその手腕を発揮しました。
ある時、乃木は迪宮にどうやって登校するかを尋ねます。
漫然と「晴れの日は歩いて、雨の日は馬車で来ます」と答えた迪宮に対し「雨の時も外套を着て、歩いて来なさい」と指導。
また、冬火鉢に当たる迪宮に「寒い時は火にあたるよりも、外に出て運動場を二、三周されれば温かくなります」と教えるなど
質実剛健の思想を叩きこみます。
また、迪宮も「服に穴が開いている着物を着てはいけないが、継ぎはちっとも恥ではない」と教えた院長閣下の教えを実践。
破れた洋服や靴下を侍女に「院長閣下は継ぎは恥ずかしくないと言っているから、継ぎを当てて」と頼んだと言います。
ちなみに千葉県野田市にあった(現在老朽化のため閉館中)鈴木貫太郎記念館に
迪宮裕仁殿下の幼少期の服が展示されていました。
かなり着古した服で、ところどころに補修の跡があり、まさにこの頃の迪宮殿下の服だったと思います。
…そして、明治天皇が崩御後、乃木は妻と共に殉死をしますが
その前に皇太子になった迪宮に突然面会を求め、山鹿素行の「中朝事実」の講義を行います。
この本は「中国は易姓革命で王朝が何度も替わり、家臣が君主を弑することが何回も行われてきた。
歴代王朝は「最も優れた国(中朝)」を自画自賛しているが、実際は君臣の義が守られてもいないではないか。
ひるがえって日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。
だから日本こそ真の『中朝』である」という内容です。
小学生はもちろん、大人でも難しいこの内容に、迪宮はじっと耳を傾けていました。
司馬遼太郎の『殉死』を読んで、このことを昭和天皇に直接尋ねたことのある
中曾根康弘総理大臣(当時)はこの出来事は乃木希典が後の昭和天皇に「帝王学」を叩きこんだと評します。
明治と共に人生の幕を自ら下ろした乃木の教えは後に、戦後の巡幸にもつながって来ることになったと私も思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。この記事が面白かったらTwitterリツイートやシェアボタンでの応援よろしくお願いいたします。
コメント