この記事では、堀江貴文さんの『努力するな。マンガを読め。』を愛書家(読書家というと自分でも微妙だから)から読んで、この本で共感できたところ、違和感を感じたところを書いていきます。
いい作品をマンガ化せよ、には賛成
私も、42になるまで本が好きで結構読んでる人間ですが、マンガも今になっても結構読むし、大人の読者レベルに耐えうる作品が多いなぁ、と感じます。
たとえば私『ふたりエッチ』を毎週読んでます。
性描写というよりも、夫婦という形、もっと広げると人間がつがいになるってどういうことか?
ってことが、結構端的に描かれてて面白いんですよ。
また、私はドストエフスキーがメチャクチャ苦手で(名前が分かりづらいから)『カラマーゾフの兄弟』はマンガで読んでます。これなんかは、「読んでみたいけど、最初の10ページでイヤになる」作品を最低でも「どんな話なのか?」と理解するには役に立った。
また、学習まんがなんかも中々隅に置けなくて、先日も『少年少女日本の歴史』を読んだとき、複雑怪奇な南北朝時代を良くもここまで分かりやすく描き切ったものだと、えらく関心しました。
ホリエモンは、マンガという表現方法について「情報量が半端ない、究極の時短ツール」という表現をこの本の中でしてますが、確かにその通り。
しかも面白いわけですから一石二鳥、まさにその辺は賛同できるわけです。
多分読者は「マンガだけでいいじゃん!」と思っちゃうタイトル
とまぁ、ここまでは賛同できる話。
一方で、私なんかはホリエモンさんがこの本を書くにあたって強調した「努力するな」には若干の違和感が残ります。
この本の読者、多分「活字の本要らないじゃん」くらいに誤解すると思う。
それ、違います。
堀江さん、この本では書いてないけど、メチャクチャ本を読んでます。
それも、ライブドア事件で刑務所に入った時にどんな本を読んだのか?を一冊の本にしているくらいに。
マンガの紹介でも、その下積みがキッチリ効いてて、
表現は砕けてるけど、正確に読むという訓練をしっかりしていることは、お勧めマンガの紹介文やマンガ家との対談でも読み取れます。
成功した人がよくやりがちですが、
成功体験を語る際に自分のやったことをものすごく単純化して、「地味に効いてる」部分に目がいかなくなる現象がしばしば発生します。
例えば、先に私が例にした『ふたりエッチ』なんかにしても、10代の子たちが読めば別の読み方になるはず。また、私が大好きな『味いちもんめ』にしても、若い人が面白がってくれるか?となるとまた、検証が必要なんじゃないかな、と。
マンガ、活字に関わらず、人間の積みあがってきたもので読み取る力が付く、ってのは間違いないんですが、ホリエモンが本のタイトルのようにして(マンガを楽しんでいる「だけ」で)出来上がってきたか、というとこれもまたちょっと違うんじゃないかと。
「より世の中を知るためには、しかめっ面した勉強だけが能じゃないよ。マンガというメディアからでもすごい情報がとれるんだ!」という意味ならいいけど、
読者が「マンガというメディアが万能で、その他の方法は効率が悪い」と読み取ると、これも違うかなぁ、と。
私なんかだったりすると、マンガからも、本からも、落語からも、文芸からも何でも取り込みたい派なんで。
その辺が気になるわけです。
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