皆さんは、本をお読みになりますか?
「批判的に読む」「行間を読む」という言葉がありますが、どういう意味だかわかりますか?
恥ずかしながら私は、学生のころから30年ほど、読書をしていますが、
未だに「自分は本の本当の意味を理解せずに読み飛ばしているのではないか?」というモヤモヤをずーっと引きずっております。
いつか本式の読書の仕方を学んでみたいな、と思っていたところ佐藤優さんの『読解力の強化書』という本を見つけて読みました。
読んでて「なるほど、行間を読むってこういうことか!?」というのが分かりました。
人生のカギになる「読解力」
仕事でなぜかスムーズに進む相手、逆に中々意思疎通の齟齬があってトラブル続きの人がいます。
スムーズに進む相手は、こちらの言わんとすることを敏感に察知でき、それに対応してくる
そうでない相手だと、一方的に話を進めようとしたり、話をそもそも聞いてなかったりします。
そうならないにするためには、様々な人間と付き合い、「この人はどういう人なんだろう?」と観察し、考え、理解する訓練がいりますが、実際の人間相手にコレをやると、大変な手間がかかります。
そこで役立つのが小説の精読。小説には善人も、悪人も、強い人も弱い人も出てくる。
いい小説だと、登場人物の組み立てがうまいから、じっくり読んでいくうちに人間洞察力が磨かれていく、というわけです。
演繹法、帰納法を43歳にして納得する
ここで、第一関門になるのが、そもそも正確に書いてあることを理解できているか?
という問題です。これは文章の約束事を踏まえているかということ。
基本的な論理の組み立て方、演繹法、帰納法を紹介しています。
ところで、私この演繹法、帰納法の名前は知っていても、具体的に何を表すのかまでは抑えていませんでした。
しかし、この本の説明は分かりやすく、一発で理解できました。
演繹法は普遍的な法則を使いながら、問題をバラバラに分解して、一つづつ A=B、B=CだからA=Cという論証を行う方法。
帰納法は例えば「野村克也さんが亡くなった、中村吉右衛門さんも亡くなった、川柳川柳師匠も亡くなった…」と実例を並べて「だから人間は必ず死ぬ」と法則を導き出す方法です。
あ、そういうことか。と妙に納得。
無知をさらけ出していますが、本当に知らなかったんだからしゃあない(´・ω・`)
「批判的に読む」の真意を理解する
なるほど、と思ったのは次のステージ「批判的に読む」こと。私は「批判的というと文章にケチをつけるのか?」とかってに勘違いしていました。
でも、それは違ってて
「自分の先入観や偏見を取り払って、客観的に対象と向き合う。一度まっさらにした状態で、対象の価値を判断したり、その奥にある深い真理を洞察する」ことだといいます。
ここを読んでいて思い出したのは
仕事の引継ぎ時によく「くせが強い」と記されたお客さんが多かったこと。
でも、実際に向き合ってみると、あまりそんなことはないし。トコトン接し、話を聞いていくと
実はそれは前任者が手を抜いて、適当に対応していたことにいらだっていただけだった、ということもあったりしました。
この「くせの強さ」とは前任者目線で貼られたレッテルなわけですが、コレをもし鵜吞みにしていたら、実際のお客さんの本質をとらえるのに、もうちょっと時間がかかっていたかもしれません。
そういった先入観を排して、自分の目で相手を捉えなおした私の一連の行動、これが「批判的」の真意だったのか…と腑に落ちました。
『塩狩峠』をテキストに「行間を読む」を追体験
そして、この本で一番面白いのは、佐藤さん自らが中学生と三浦綾子の『塩狩峠』を読んでいく第3章。
この3章を読むために1章、2章を読んできた、といってもいいと思います。
『塩狩峠』は、鉄道事故を自分を犠牲にして防いだ、あるクリスチャンの鉄道員の物語です。そしてキリスト教徒が読む雑誌にキリスト教徒である三浦綾子さんが寄稿したものなので、
人によってはクリスチャン万歳で違和感バリバリ、と感想を漏らす人もいる小説です。
私も読んだことがありますが、まぁその気持ちは分かる(ちなみに私は浄土真宗の仏教徒です)。
しかし、この3章は小説を読んでいればより分かりやすいものの、読んでいなくても「行間を読むとはこういうことなのか?」の面白さは十二分に分かるように構成されているので、
事前に『塩狩峠』を読む必要はありません。
ここで展開されるのは、佐藤さんの宗教や歴史、文化に対する縦横無尽で深い知識。
彼のナビゲートで、中学生とともにテキストのシーンを考え、シーンの何気ない一言に隠されたメッセージを読み解くのは、はまっちゃうくらいに面白いです。
例えば、佐藤さんは塩狩峠のクライマックス、あわや大惨事のシーンで、主人公の昔馴染みが「なんまいだ…」と念仏を唱えるシーンを切り取ります。
これが、中々面白い考察です。
なんまいだ、とは南無阿弥陀仏という言葉のなまりで、真宗徒の私からすればもうおなじみの言葉。
そして、真宗は人間はもともと悪人であり、浄土へ行くには阿弥陀如来に「南無阿弥陀仏」を唱えて、ひたすら「あなたにおすがりします」と誓いを立て続ける絶対他力を唱えます。
一方で、キリスト教のプロテスタントは人間には原罪がある、と教え神は救うものを決めている。だから信じろという「予定説」を唱えていることを説明します。
宗教は違いながら絶対的な存在にすがる、と2つはとてもよく似ていることを佐藤さんは指摘したうえで、両者の全く違う点を説明します。
それが「念仏を唱えるだけなのか?実際に善行を行うのか?」の違い。
キリスト教では、実践が尊ばれるので、成功者は寄付やボランティア活動などにも熱心であると指摘します。
対して浄土真宗の場合「いいか悪いかは阿弥陀如来が判断するので、善悪を人間が判断するのは傲慢だ。だから『あなたにおすがりします』という意味の南無阿弥陀仏を唱えなさい」という論理になります。
このシーンの時、昔馴染みは念仏を唱えて「阿弥陀如来におすがりした」。
実に仏教徒らしい。その後主人公は車両のブレーキを操作して、それでも止めきれずレールに身を投げる…という展開の伏線になる…。
その解説に、思わず「なるほど」と膝をうった次第です。
どうせ読むなら「行間を読める」人になりたい
本当に本が読める人が、読んでいることに注釈をつけて解説してくれるという滅多にない機会を体験できて
限られたテキストから、吹き出すように英知を導き出せる読み方って、すげー面白いな、と久しぶりに感動しましたね。
それに、授業の中学生たちの感性がこれまた個性的で、ただ素直に「すげーな」とか、単純に「こんなのダメじゃん」みたいに全否定するでもなく、
テキストに向き合って考えている姿勢も大変刺激になりましたわ。
この本いいですよ、ぜひおすすめします。
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