このブログでもチョクチョク書いているんですが、ワイのお墓は群馬県旧松井田町にありまして
子どものころに盆暮れに親族が集まる時には、おぎのやで「峠の釜めし」を買って来てみんなで食べていたんです。
X(旧Twitter)でもチョクチョク話題にしてて、信越本線の横川軽井沢間があった時代をご存じの方と、ワイワイとおしゃべりをしたりして。
で、そこまでやってた時に、自分の知ってる釜めしって、2000年くらいが最後くらいだったよなと。いま元気でやってるけど、昔と何が違うのかなぁと
そんな事を考えたわけです。
今の社長が2歳上の人でビックリ!
そこで手に取ったのがこの本で、懐かしさもあり一気に読み切ってしまいました。
2021年の出版で、著者は「おぎのや」の6代目社長。1976(昭和51)年生まれという
ブログ主(1978年生まれ)と同世代の社長が、今会社を引っ張っているんだとか。
私の世代はアラフィフで働き盛りだから、とは思ったものの…時の流れの早さを感じますし、先代社長が急死して、留学先から戻って会社を継いだと聞いて、若いころから頑張ってたんだなと。
実は結構危なかった「荻野屋」の経営
私の記事では、峠の釜めしがなぜできたのかという話が割と多くて、その後に関しては
「新幹線や高速道路でも売ってたね」「この前横川ドライブイン行ったら、新しい釜めしが売ってたな」と変化は知っていたものの、そこに至るまでの経緯がすっぽり抜けていました。
この本を読んでいると、どうしてそうなったかが結構しっかり書いてあって面白かった。
例えば、信越本線横軽間の廃止、上信越自動車道や新幹線の開通、長野オリンピックなどの時代の変化に対して
新幹線、高速道路のSAで提供しようとか、長野県に大規模なドライブインを建設しようとかという「脱駅弁」化の動きを取って成功します。
一方で、拡大路線に売り上げが追いついていたこともあって、思い切った借入金で規模を拡大してもなんとかなったため、どんぶり勘定になりがちだった負の側面もあり
前社長の後を引き継いだ著者が、悪戦苦闘を重ねて負債の圧縮を行ったことも率直に描かれています。
20代で父親が急死した現社長は大変だったでしょうが
もし、現社長が元気でそのままかじ取りを続けていたら、ここまでドラスティックに路線変更できるかなとか思います。
成功体験は捨てきれないですし。
また、現社長が前社長の路線を変えなかったら、元々の負債に売り上げの急減のダブルパンチで会社倒産、なんてこともあったかもしれませんね。
ただ縮こまるだけでなく、次のタネを育てる一手を
一方で、現社長の時代に手掛けたのはブランドを全国に広げることで、これは各地の「駅弁フェア」などに出展したりした時代になります。
私は単純にフェアの朝に工場から会場に運んでたんだろうと、メチャクチャ雑なことを考えていたのですが、
アメリカに出展するとなると、そりゃ無理だよなと。
釜めしの製造過程を見直して、相応の対応をしないとこういった機動的な動きをやるのは難しいよなぁと、改めて気が付いた次第です。
もちろん全部が上手くいくわけではないんです。台湾でやった時はうまくいかなかったらしい。
だけどなんかを拾ってきて、ちゃんと次に活かしている。
また、釜めしというとあの、益子焼の器があるんですが、あれを変えた時のエピソードもあって、
陶器が重くて、処分に手間取るという問題を解決するためはもちろんなんですが
元々、飛行機の空弁として売ることを目指して作ったらしい。
また、釜めしを考案した先々代の「温かみのある陶器」を選んだコンセプトをなるべく残したいと、新しい容器選びに知恵を絞ったりしてる。
私のようにただ食べてる人間だと、昔ながらの味がいい、器が陶器じゃないとちょっと寂しいと、無責任に言える立場だけど、会社側はそういううるさ型のお客さんも含めて、常に新しい時代に対応している。
現場の人たちって、色んな可能性を求めて常に変化しているんだなと強く感じました。
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