この記事では1986(昭和61)年に見つかった、昭和天皇の手紙について触れていきます。
この手紙を現代仮名遣いで書き直し、さらに
蛇足になるかもしれませんけど、一応解説を付したいとおもいます。
手紙の書かれた時期は、マッカーサー元帥が東京入りする1日前
この手紙は、上皇陛下のご学友、橋本明氏が1986(昭和61)年に発掘したもので、
書かれた時期は昭和20年9月9日。翌日には、連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木に降り立ち、東京入りした時期です。
当時は、天皇の処遇などについては日本側がほとんど把握しておらず、最悪処刑も覚悟していたと思われます。
そんなわけで、昭和天皇はこの手紙の中で、なぜ日本が負けたのかを当時11歳の息子、明仁親王に伝える必要を感じた様子で、簡潔ながら極めて具体的にその敗因を語っています。
手紙の内容を解説しながらご紹介します。
手紙をありがとう。
しっかりした精神をもって、元気で居ることを聞いて喜んでいます。
国家は多事ではあるが、私は丈夫で居るから安心してください。
今度のような決心(終戦のこと)をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど
先生とあまりにも違ったことをいうことになるので ひかえておったことをゆるしてくれ。
終戦工作は、ご存じのとおり昭和天皇の意志を体した鈴木貫太郎総理大臣が、
それまでの一億玉砕の戦争継続姿勢をひっくり返すべく、ギリギリのタイミングを見計らって行いました。
したがって、その意図が漏れた場合、工作が失敗して最悪、日本国が連合国と戦争を継続しながら内戦まで始まる可能性すらありました。
その辺の解説は当ブログの「耐え難きを耐え」しか知らない人のための玉音放送講座、でもご紹介しているので、ぜひご参照ください。
敗因について一言いわしてくれ。
我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである
我が軍人は、精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。
これは「敵を知り、己を知れば百戦あやうからず」という孫子の兵法にも通じますが、戦争には必ず目的が設定され、そのための最善手を探るのが基本となります。
しかし、太平洋戦争においては、世界最大の国アメリカに物量で数段劣る日本が、戦争開始に追い詰められ、
戦争中も作戦計画において「敢闘精神で補う」という(仮想の)バフをかけるという過ちを犯していると
昭和天皇は指摘しているわけです。
明治天皇の時には山県(有朋)、大山(巌)、山本(権兵衛)等の如き陸海軍の名将があったが
今度の時は、あたかも第一次世界大戦の独(ドイツ)国の如く軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って退くことをしらなかったからです。
明治天皇の時は、というのは日清、日露の両戦役を指しています。
この時、日本は戦争に踏み切るまでに十二分に準備を整えました。
当時最強国のイギリスと日英同盟を結び、アメリカ大統領に仲介を持ちかけるなど、手仕舞いまでをキチンと準備しました。
そういったクロージングを考慮せず、相手に一撃を与え、怯んだ時に和平に持ち込むという極めてあいまいな判断をしてしまったことに対する鋭い考察がチラリと見えます。
戦争を続ければ、三種神器を守ることも出来ず、国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで国民の種をのこすべくつとめたのである。
ここまでは、科学の目を持って合理的な判断を行ってきた昭和天皇ですが、天皇という存在が昭和天皇の前に123代あり、その伝統が日本の根幹をなしていることを
それとなく伝えています。
三種神器とは、八咫(やたの)鏡、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)のこと。
このうち、剣は熱田神宮に、鏡は伊勢神宮の内宮にあります。
本土進攻となれば、熱田や伊勢が敵軍の手に落ちることは当然想定されるので、天皇が受け継ぐべき秘宝が失われるという事を憂慮していたことがうかがえます。
そして何より、国を国たらしめている民の命がより危ない。軍人は勝った負けたにこだわって、長野県に首都機能を移そうと画策しましたが、
昭和天皇はそれを拒否しています。長野に立てこもった段階で、日本はその国体を失っているという考えを陛下が強く持っていたからです。
穂積大夫(重遠、当時の東宮大夫)は常識の高い人であるから、わからない所あったらきいてくれ。
寒くなるから心体を大切に勉強しなさい
九月九日
父より
最後に、裕仁という名前を使わず、父よりという書き方をしたのは、個人的な推察ですが
次の天皇は息子の明仁、君なのだという意図もあるような気がします。
本来ならば、直接会って話したいが、奥日光に疎開している殿下に会うのもままならず、自身もGHQが皇居に乗り込んできて、天皇の捕縛を行った場合、
話を伝えることもままならなくなるわけです。
しかし「涙をのんで国民の種をのこすべくつとめた」理由を、次の天皇に伝えるということも、大事な責務と考えていたと思います。
そんなわけで、自分のことはサラリとしか書かず、なぜ負けたのか、どうして降伏したのかを息子に正確に伝え残すために書いた
「遺書」のようにも、私は読めると思います。
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