久しぶりに、日本のスゴイ人列伝を更新します。
今回は、実業界の経営手腕で超巨大国営企業、国鉄立て直しに奔走した
石田禮助さんを紹介します。
石田禮助さんの痛快で筋の通った人柄が大好きで、城山三郎さんの『粗にして野だが卑ではない』は学生時代に何回も読んだことを覚えています。
石田禮助さんとは、誰?
石田禮助さんは明治19年生まれ。
東京高等商業学校(現在の一橋大学)卒業後、三井物産に入社します。
彼の面白いところは当時としては珍しく主に海外でそのビジネスライフを過ごしているところ。
そして海外での長い生活を通して、
西洋的な合理主義的な考え方と社会奉仕の精神を学び取ります。
同社には35年勤め、最終的には同社の代表取締役社長にまで上り詰めますが、彼の活躍した海外市場は太平洋戦争の荒波を受け、
彼もその余波で同社を去ることになります。
しかし有能な人材が引き手あまたなのはいつの世も一緒。戦中も産業設備営団顧問や公益営団総裁を務め、
戦後の公職追放後は自宅のある国府津で農業をする生活を送っていました。ここで悠々自適の隠居生活に入ってもおかしくない(終戦時に59歳!)のですが、
昭和31(1956)年に御年70歳で国鉄の監査委員長として実業界に復帰。
その後昭和38(1963)年「最後のご奉公」として、78歳になって国鉄(現JR)の総裁に就任します。
問題だらけの国鉄を立て直すために奮闘
JRの関係者の皆様には申し訳ないのですが、国営企業だった当時の国鉄は鉄道や船舶の老朽化が進み、人材の士気の低下なども加わって
今では考えられないレベルでの規模で、連絡船や鉄道事故が発生。
彼が総裁就任後にも鉄道事故も発生(鶴見事故)して多数の乗客が死亡するなど、
その上、その費用を捻出しようにも
国営企業であることも相まって、運賃などに転嫁することもできず、逆に国会議員からは「新駅を作れ」といった負担増を伴う陳情も集まってくる。
慢性的な赤字も膨らみ、収益性も悪化。歴代総裁はこの問題の解決に苦しんでいました。
そんな中、石田総裁はまず、安全の確保のために老朽化した設備の刷新に着手します。
老朽化の進む各地の連絡船を予算をシッカリつけて最新のものを導入。
安全に対するモチベーションを上げるために、専売局(現在のJT)などの他の国営企業よりも職員の給与をアップさせ、能力があるけれど出世できなかった低学歴の職員を抜擢したりして
硬直化した組織の立て直しを図ります。
こういった大幅な予算アップや給与アップなどは国会で検討して貰わないと通らない案件。
通常なら予算を付けてもらう側ですから国会議員に下手に出るところを、この方は相手の要求(新駅)を突っぱねつつ、こちらの要求(予算獲得)を「必要なものは必要だ!」と堂々と主張します。
「余計なものには金をかけていられない!」と多大な出費を強いる青函トンネルの計画には反対。
新幹線も東海道や山陽といった採算の取れる主要路線だけを進める、
といったビジネスマンらしい施策を取ろうとします。
しかし、国会議員だって、在来線の新駅を地元に持ってきたり、新幹線の新線を選挙区に引いたりして「いい顔をしたい」。
しかし、ズケズケと交通委員会なんか「ダメなもんはダメ」と言うもんだから波風は立つ。
だけど石田総裁の「国鉄を、安全に運行させ独立採算できる組織にすること」という信念は全くぶれない。
だから与野党問わず国会でも支持され、信頼されることとなり
当時は様々な施策を通すことに成功しました。
ちなみに国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)を手放したのも石田総裁の時代です。
プロ野球球団は独立採算の難しいものの代表みたいなものですから、赤字の国鉄がサンケイ新聞社にチームを売却したのは、正解だったと私は思います。
そんな名総裁でも、根本的な立て直しはできなかった
結果として、国鉄総裁として6年務めました。
しかし、彼の退任後、労働組合との関係や膨らみ続ける債務などで国鉄は苦しみ続けます。
様々な問題が噴出し、国鉄はJRへ分割民営化へと進むことになります。
ただ、歴代総裁の中でも、際立って組織の軋轢に縛られず、
国鉄の立て直しを「最後のご奉公」とばかりに取り組んだ彼のことは、結構好きだったりするのです。
報酬は鶴見事故の発生後は1年で洋酒(ブランデー)1本のみ。
富も名誉もいらぬ、世のため人のために自分の仕事をする姿は実にカッコイイんですよ。
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