この記事では、明治~昭和時代の天皇の後継者問題について書きます。
神話からだと2700年、歴史的にたどれるのは1500年。日本の天皇は連綿と男系を貫いてきましたが、これが近代においても極めて困難な道のりだということを色々書いていきます。
なお、現在の道徳観念からはちょっと違う部分もありますが、これは歴史的事実を記述したものであるということをあらかじめご了承ください。
皇后に必要なのは、まず格式だった
明治天皇が皇后美子と結婚したのは、彼女が一条家という皇后に見合う格式の家柄だったということ。
ところが、美子皇后は身体が弱く、子どもを産めそうにないということで、
「お妃女官」が設けられたという経緯があります。
実は、当時の天皇は皇后の産んだ子が次の天皇になるとは限らない。周りに仕えている女官が生むパターンが結構多かった。
当の明治天皇は孝明天皇の妃英照皇太后ではなく、やはり天皇に仕えた中山慶子が生んでいます。
そんなわけで、夜伽を務め、後継者を産むために何人かの女官が仕えることになった。
そして実際、15人の皇子女が誕生しています。
明治天皇の悩み「男の子が長生きしない!」
ところが、当時は皇子が誕生しても大人までならず夭折することが非常に多かった。
最初に男児を身ごもったのは葉室光子という女性。しかしこれは死産で、光子自身も亡くなってしまう。
男児で成年を迎えることが出来たのは、明宮嘉仁親王ただ一人で、他はみな一歳くらいで亡くなっている。
この明宮嘉仁親王がのちの大正天皇。
しかし、彼も決して健康な身体を生まれついてもっていたわけでなく、彼の後継者、つまり孫が生まれるか、というのは明治天皇にとっても頭の痛い問題だったといえる。
丈夫な女性と結婚させる、これが大成功!!
というわけで、後の大正天皇には、身体の丈夫で健康的な女性が選ばれた。
九条節子。後の貞明皇后である。
節子は正妻の子ではなく、野原を真っ黒に日焼けしながら遊びまわった。
別名「九条の黒姫さま」。子供の頃は当時流行していたオッペケペ節なんかをクラスの中で歌ってやんごとない同級生を唖然とさせるなど、ゆかいな幼少期のエピソードをお持ちの方。
嘉仁親王もこの結婚を喜び、2人の間にはすぐに男児が誕生。
これがのちの昭和天皇で、その後も秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王、三笠宮崇仁親王と
男の子を4連続で生んじゃうという快挙を達成。
なんか、おじさん的な例えからするとブライアントの4連発みたいな奇跡!!
大正天皇の後継者問題を一人で解決することになったわけです。
昭和天皇、お妃女官をキッパリ拒否!!
当然お妃女官制度はお呼びでないのだが、実は次の昭和天皇の代に一回、検討されたことがあります。
というのも、昭和天皇の妃である香淳皇后はこの逆、4人連続女児を出産したからです。
当時は迷信もあったから「皇后は女腹」と呼ばれ、お妃女官の検討もされ、実際何人か昭和天皇に「いかがでしょうか」と打診をしている。
しかし、さすがは私の敬愛する昭和天皇!
「みんな、いい娘なようだから、いいところに嫁ぎ先が決まるといいね」とキッパリ拒否。
妻である香淳皇后にはプレッシャーをかけまいと「(弟君の)秩父(宮)さんも高松(宮)さんもいるから心配いらないよ」と言葉をかけて気遣ったとのこと。
そして…結婚から9年目、ついに待望の男児が誕生!これが現代の上皇陛下で、国民は大いに喜んだそうです。
とまぁ、明治時代から昭和の時代にも何度か「後継者問題」があったということを縷々書いてきました。
現在の観念からすれば、お妃女官制度は復活の仕様がありません。
ぜったいに無理です。
希望は、秋篠宮家の悠仁殿下が控えていることで、
悠仁殿下に男児が誕生すれば、とりあえず次の代がつながるということになります。
男女平等の時代になんつーアナクロニズム!とお叱りを受けそうですが、それが伝統の重みで、だからこそ皇室が連綿と続いたという重い事実もあると思いますよ。
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