今こそ読みなおしたい「浅沼稲次郎追悼演説」

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昨日(2022年7月8日)、安倍晋三元総理大臣が暴漢の発射した凶弾に倒れ67歳の生涯を終えました。

私は、彼がこれからも活躍することを信じて疑わなかったので、

深い悲しみと喪失感を覚えた次第です。

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安倍晋三が嫌ならば、浅沼稲次郎の死から学べ!

ところで、私のように感じる人の他に、

彼を悪の大魔王のようにレッテルを貼り、その死に快哉を叫ぶ「残念な人」がいたのが、個人的には非常に残念に思いました。

今回の事件は「暴力をもって言論の自由を脅かす」という、現代日本にあってはならない事であって

ただ一人の政治家の死とは一線を画すものだと思っているからです。

テロに対して快哉を叫ぶ、ということがいかに非常識かつ、破廉恥きわまりないか…

思いに至らない姿に深い怒りを覚えました。

…と言っても、私が言ったところで、それは向こうからしたら「アベ信者のたわごと」と一笑に付すでしょう。

それならば、別の人に対する追悼演説を読んで、今回の凶行を捉えなおして欲しい…

今回、このタイミングで1960年に池田勇人総理大臣(当時)が

日比谷公会堂で同年10月12日に刺殺された浅沼稲次郎社会党委員長(当時)への追悼演説を

このブログにアップしようと思ったのは、そういった思いがあったからです。

池田勇人総理大臣(当時)

追悼演説本文(1960年10月18日)

日本社会党中央執行委員長、議員浅沼稲次郎君は去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。

私は、皆様の御賛同を得て

議員一同を代表し、全国民の前につつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。

ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、

私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。

私が、心ひそかに本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、

また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。

かつて、ここから発せられる一つの声を、私は社会党の党大会にまた、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。

今その人はなく、その声もやみました。

私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。

しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。

「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。

 

私は目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、

皆さんとともにはっきり誓いたいと存じます。

これこそ故浅沼稲次郎君の御魂(みたま)に供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。

浅沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。

早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。

当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。

君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。

大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。

すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、

戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。

君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。

以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。

戦後同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。

昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。

書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。

幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。

翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、

野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。

かくて君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。

浅沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。

君がかかる栄誉をになわれるのも畢竟(ひっきょう)その人となりに負うものと考えるのであります。

浅沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。

かくてこそ複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。

君はまた、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。

文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。

沼は演説百姓よ
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺

これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。

委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。

全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、彷彿(ほうふつ)たるものがあります。

「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」

と、生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、

君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。

 

君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。

愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。

国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。

君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。

私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝(ひれき)し、

国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。

君もまたその決意であったと存じます。

しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。

ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。

ここに浅沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。

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