収容者が在りし日を懐かしむ「自由過ぎる捕虜収容所」を作った男~松江豊寿

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皆さんは「捕虜収容所」というと、どんな光景を思い浮かべるでしょうか?

鉄条網が高く張り巡らされ、日々の生活は極端に制限される日々。人間としての尊厳すらも抑圧される空間、といったところでしょうか。

では、次の一枚の写真をご覧ください。とある捕虜収容所の一枚です。

めっちゃ、くつろいでますやん!!

この収容所、実は所外を出るときも、身元引受人がいれば見張りなしで出れるし、

クリスマスパーティーやピクニックにボート遊び、外部の日本人を招いての文化祭など、楽しいイベントが満載!!

収容者が帰国後「同窓会」を作った、伝説の捕虜収容所「板東俘虜収容所」です。

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板東俘虜収容所とは?

日本は、第一次世界大戦の時日英同盟の関係でドイツに宣戦布告し、当時ドイツ領だった現中国の青島(チンタオ)を攻撃しました。

で捕虜になったドイツ兵たちを収容する施設が急遽必要になり、いくつかの「俘虜収容所」が建設されました。

俘虜収容所の中では、ドイツ兵から不満の声が上がるところもあったのは事実ですが、

現徳島県鳴門市に作られた「板東俘虜収容所」は別。

そしてこの収容所の所長を務めたのが松江豊寿(まつえとよひさ)中佐、当時44歳でした。

松江豊寿所長

苦労人、松江豊寿。

この松江中佐、一言で言えば逆境から腕一本で出世してきた、苦労人

戊辰戦争後「朝敵」のレッテルを受けた会津藩に生を受け、情け容赦のない扱いをされた経験を生身で体験しています。

だから「敗者というのは、みじめで悲しいこと」という経験を骨身に沁みて理解していました。

だいたい人間、辛い経験があると真っ二つにその後が分かれる。

自分がその立場にまたなりたくない、と必死に努力をするタイプ。場合によっちゃ同じ立場になった人間を虐げる人もいるかもしれないですな。

もう一つは、あの立場を他の人に経験させない、させたくないという「思いやりが発露」するタイプ。

松江豊寿所長はまさに後者でした。

収容所施設に赴任して、ドイツ人たちを迎え入れるその日に職員たちにこう訓示します。

「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」

兵士たちは国のために戦ったドイツ国民であり、犯罪者ではない。松江は職員に犯罪者扱いをすることを厳禁しました。

一方、ドイツ兵たちには

「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ」

と、彼らの勇戦と名誉をたたえ、自らの名誉を汚さないで欲しい、と自覚を促しました。

先ほどもちょこっと書いたのですが、当時の日本は捕虜の扱いに慣れていなかったこともあり、前の収容所での待遇では不満が続出していました。

しかし、ドイツ人俘虜たちは「自分を認め、尊重してくれる」松江所長の思いに応えることになります。

みんなでピクニックに海水浴!面会もOK!!

たとえ捕虜でも人間、たまには遊びたいものです。

そんなわけで、所内の燃料の薪を調達する「ついでに」食事を持っていったり、海水浴を楽しんだりもしていたそうです。

しかし、これはあまりにも軍紀に反する、と上官がお小言を出したそうですが、

松江所長は、「いやなに、食事を持ってって、汚れた足を洗わせただけであります」とシレッと答えたとか。

また、板東には収容されている兵士や将校の家族が面会にやってきていたそうで、個室で面会も可能だった様子。

当時の守衛の日誌には「面会時間中、夫婦2人はホントに仲が良くて、ホノボノしちゃったよ」(現代語訳)との記述もあるそうです。

先生役として、日本人に技術を伝授

遊んでるだけではありません。

そもそも、ドイツ兵たちは徴兵前は様々な生業についていました

パン職人や、活版工、建築土木技術者、農業技術者など…その道の専門家が山のようにいる。

彼らはその能力を発揮して、専門の工場や牧場、農場を営み様々な製品を作り出します。

その出来映えのすばらしさから「ぜひ見学させてほしい」と見学者が殺到

彼らも、規律を重んじる勤勉なドイツ人講師として、その技術を余すところなく見学者に伝えました。

また、音楽好きの地元青年たちが、ドイツ兵に楽器を教わり、楽団を作った話もあります。

彼らが演奏したのがベートーヴェンの第九交響曲

後に年末に第九を演奏するイベントが日本に定着しますが、そのきっかけになったのは板東のドイツ兵たちだったのです。

こうした交流が続くうち、収容所のある板東では、ドイツ兵捕虜のことを親しみをこめて「ドイツさん」と呼ぶようになりました。

得体のしれない外国人ではなく、自分たちと同じ人間として、日本人もドイツ兵たちもその距離を縮めていきました。

ドイツさん、かわいそう。

そんな中でも、戦況は着々とドイツ不利に傾きます。

決定的だったのは、それまで中立を保っていたアメリカ合衆国の参戦で

収容所のある板東にも、祖国の戦況が伝わります。

ドイツ兵たちにも、次第に荒んだ空気が流れ、折から流行していた「スペインかぜ」(悪性の鳥インフルエンザ)に倒れるものもあらわれました。

そして、ドイツ敗戦。

当時収容所内では、『ディ・バラッケ』という新聞がドイツ兵によって発行されていました。

毎週発行されていたこの新聞も、敗戦の報を受けた後、発行されなくなっていました。

ある日、松江所長は『ディ・バラッケ』の編集担当者を呼び敗戦で肩を落とす彼らに、「このようなときだからこそ新聞を発行し、『現実を受け止め、前を向こう』とみなに呼び掛けなさい」と説得しました。

そうして掲載された記事「戦友諸君に訴える」は、ドイツ兵たちを大いに励まし、勇気付けました。

そして1919年6月28日、ヴェルサイユ条約が調印。戦勝国である日本は大いに沸きます。

…ただ一か所、板東を除いては。

板東の人々は、何年もの間親しく付き合った友人たちの祖国が敗れたことに胸を傷め

「ドイツさんかわいそう」と涙を流す人もいたといいます。

松江所長は、捕虜のドイツ兵の前で、次のような訓示を述べました。

「諸君。私はまず、今次大戦に戦死を遂げた敵味方の勇士に対して哀悼の意を表したい。もとい。いま敵味方と申したが、これは誤りである。

去る6月28日調印の瞬間をもって、我々は敵味方の区別がなくなったのであった。同時にその瞬間において、諸君は捕虜ではなくなった。

……さて、諸君が懐かしい祖国へ送還される日も、そう遠くではないと思うが、すでに諸君が想像されているように、敗戦国の国民生活は古今東西を問わず惨めなものである。

私は幼少期において、そのことを肝に銘じ、心魂に徹して知っている。それゆえ、帰国後の諸君の辛労を思うと、今から胸の痛む思いである。

……どうぞ諸君はそのことをしっかり念頭に置いて、困難にもめげず、祖国復興に尽力してもらいたい

……本日ただ今より、諸君の外出は全く自由である。すなわち諸君は自由人となったのである!」

そして、戦争の終結は、別れの時が近づいていることでもありました。

外出制限がなくなると、親しいドイツ兵を家に招いて別れを惜しむ送別会があちこちで行われました。

その年の12月、彼らは長年住み慣れた板東の地を去っていきました。

収容所のあった場所は現在「ドイツ村公園」と呼ばれ、資料館もあります。

板東俘虜収容所関連の作品

とまぁ、ざっくりと板東俘虜収容所のあらましを語ってきたわけですが、

この話をフィクション混じりですが、映画として楽しめる作品もあります。

それは、松江豊寿を松平健さんが好演している『バルトの楽園』です。

また『松江豊寿と会津武士道』という新書は今でも比較的入手しやすいと思います。

興味のある人はぜひ、視聴してみてください。

*話が脇道に逸れますが、『バルトの楽園』に出演した板東英二さんは、外地から命からがら帰還した後にドイツ軍捕虜たちが住んでいた「旧板東俘虜収容所」で暮らしていたという奇縁があります。

ちなみに…今も残る「ドイツさん」の仕事たち

最後に、ちょっとだけ雑学を…

第一次世界大戦の終戦後、多くのドイツ軍捕虜が祖国に帰る中、日本に残った人もいます。

その一人、カール・ユーハイムはとあるお菓子を日本に紹介しました。

また、ハインリヒ・フロインドリープというパン職人は戦後、とある会社にスカウトされます。

そこの会社が出してる食パンがこちら。もしかしたら、朝食でお世話になる人も多いかな。

こんな形で僕らの日常には、過去の歴史が入り込んでいます。ちょっと、面白くありませんか?

日本のスゴイ人列伝、続きます!バックナンバーはコチラから!

【関連記事】

松江豊寿所長と同じく会津に生まれ、苦難を重ねながら陸軍で頭角を現した柴五郎さんの記事です。

教科書では書かれない「もう一つの明治史」~『ある明治人の記録』を読む

参考図書

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