先日地元の病院で、風疹の抗体検査を受けてきました。
私の世代は公的な「風疹の予防接種」を行わなかったということで、市から通知が来たのです。
私自身、風疹にかかったかどうか記憶が定かではありませんし、予防接種がなかった、というならばこの機会に調べてもらおう、と
指定された病院に予約を入れました。
病院に向かう前に、隣町の実家に帰って、私の母子手帳を見せてもらうことにしました。
父親から「これからは、大人であるお前が管理しなさい」と申し渡されたので、ありがたく貰って帰りました。
採血の際、既往や予防接種の種類を見てもらったところ、少なくとも小学校に上がるまでは風疹の既往も、予防接種を受けた記録もない、とのことで
採血を受けて、血液内の抗体の有無を確認することにしました。
帰宅してから、改めて母子手帳を見直してみました。
不安と期待の交じった、「初めての出産」
交付は「昭和52年7月26日」。以前私を産んだときは「安産だった」と話していましたが
母が私を身ごもってから、自身の身体のことにいかに気をつけていたか、それが記録でよく分かりました。
血圧が高めで、塩分制限をしたこと。
自転車に乗ると、足の付け根に痛みを感じ、不安に感じたこと。歩き始めると、やはり痛むが歩き慣れると治ること。
夜中に右上肢にしびれを感じ、よく眠れないと書いてあること。
26歳の母が、生まれて初めての経験に敏感になりながら、いかに私を大事にして、元気にこの世に送り出したい、という不安と願いの入り交じった思いを抱いていたことが分かります。
産気づいたのは、予定日をちょっと前倒しした朝で、「朝の連ドラを見てたら陣痛が始まった」とのこと。
生まれたのがその日の午前11時15分と言いますから、3時間弱で生まれたことが分かります。
つい先日、私に姪っ子が生まれた時は丸3日かかった事を考えれば、確かに「安産」とは言えるでしょうね。
生まれてからも、悪戦苦闘
今でこそ、ふてぶてしいクソオヤジになってしまった私ですが、赤ん坊の頃はそんなこともなく、よく熱を出してはひきつけを起こす子だったようです。
簡潔なメモの中から、さまざまな思いが感じられます。
「新米ママ」である母は、生後9ヶ月の私が39度を超える熱でけいれんを起こした旨を記録しています。この時は突発性発疹だったようですが、この時の思い出として
「お父さんが帰って来なくて不安で不安で…いざ帰って来たら『なんで早く病院に行かないんだ!?』と言われて、パニックで泣きたくなった」
と話していました。
この他にも熱を出してはひきつけを起こしていたようで、挟まれていたメモ用紙からは、若き日の母親の不安が、結構ヒシヒシと迫ってきます。
かと思うと、昭和54年11月21日の日付で
オトウサンと呼べる(ママ)
とだけ書かれた欄も。慌ただしい日々の中でも、成長する子どもの変化に慰めと喜びを見いだしていたのでしょうね。
弟が生まれると、例によって
甘えることが以前より増した。
との記述もありました。
そして私、生まれた時から停留睾丸でした。3歳の時、今は移転した大宮の日赤病院に行ってます。
1年後また診察に行くとのこと。手術は5歳を過ぎてから、との記録もありました。
満4歳にも同様の記録があり、
「来年も行く」との記述が。私、この停留睾丸の手術を覚えていて
この日赤病院での手術後「オケツが痛いよー!」と第一声を発したことは今でも覚えています。
本人も痛かったですが、両親も心配だったでしょうね。
ひと通り読んでみて、今の私よりも若い両親の悪戦苦闘ぶりがよく分かりました。またこの時期、父は組合の仕事にも駆り出され、一方では、家を建てたころ。
上尾の会社に行く前に、北本の自宅建築現場を見ては、自分に喝を入れていたそうです。
月並みな言葉ですが、「両親の思いを端々から感じる」というのが、読んだ感想でした。
それから数年後、玉のようにかわいい私は「ツタンカーメンの呪い」や「ノストラダムスの大予言」にビビりまくることになるのですが、これはまた、別の機会に…
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