以前、同級生と大宮のいづみやで飲んだ時のことです。
同窓だった小中学生のころは名前と顔は知ってても疎遠で、どちらかから近づくこともなく、という関係だったのですが、なんとなくLINEでつながってやり取りをしているうちに意気投合しました。
社会人で距離ができたら、かえってお互いの良さが分かる。
僕はこれを「遠目の富士山」理論と呼んでおります(笑)。
その時に、大ナマ片手に彼曰く「お前は勉強好きだったからなぁ」と言っていたのがものすごく意外でした。
別に初めから勉強が好きだった訳じゃない
言っておきますが、僕だって当時はゲームやったり、マンガ読むのが好きだったですよ。
フツーに。今でも好きです。
今でこそ、勉強好きを公言してはばからないですが、小中学生当時はそんなことなく「やらなきゃいけないからやっていた」状態でした。
じゃ、楽しいってのは、どんな時だったか…
「楽しい」と「つまらない」の違いは?
こういう時は「勉強」と対比するものがあったら、分かりやすいかもしれません。
例えば、「ゲーム」にしてみましょう。
私にとって勉強とゲームの共通点は「単純作業の繰り返し」です。
特に私の好きだったゲームは「ドラゴンクエスト」をはじめ黙々と経験値を稼ぐ作業や、伝説の武器が落ちるまで黙々と最強モンスターを倒し続ける「作業」の繰り返しなんです。その作業を何か月、何年も続けました。
大人になっても、スマホで「ドラゴンクエストモンスターズ」をやっていますした。
これも言い切ってしまえば、ログボのジェムを稼いだり、経験値を貯めて自分のモンスターと強くする、など地味な蓄積がモノを言うゲームです。
じゃあ、逆に違うところは?
「ゲームは自分からやっていて、勉強はやらされている」パターンが圧倒的に多いんじゃないでしょうか。
つまり、人間は「自分からやってる」ことには熱中するが、「やらされている」ことには苦痛を感じるということです。
ゲームでも、「やらされている感」があると苦痛でしょうね。
例えば…
今日中にスコアを100万点にもっていかないと、ペナルティ。
レベルを10上げないと、罰金5000円。
ステージでミスする度に、減点
…みたいに「成果」「義務」を押し付けられたら、こりゃ苦痛でしょうな
では、勉強に「自分からやっている感」を持ち込むことは不可能なのでしょうか。
勉強で「自分からやっている感」にマインドを変えることは可能
そんなことはありません。ゲームだろうが勉強だろうが「自分からやっている」意識に変えることで面白くなるのです。
人によって様々ですが、そのマインドにもってくには「自分がドハマりしているものから、そのノウハウを拝借して、日々の勉強に組み込むこと」です。
私なら、こんな感じです。
なぜドラクエにハマったかって、最初はスライムやおおがらすに苦戦していたのが、徐々に力をつけてってゾーマに挑めるからなんです。
今、やっている戦闘が、経験値の形で積みあがって、一定の量をこなせばレベルアップする。その感触がたまらないんです。
また、コツコツとゴールドを溜めるのは、より攻撃力が高い「はがねのつるぎ」を得るためなんです。
バッタバッタと一撃でモンスターをやっつけられるのが気持ちがいいからです。
積みあがる数字をためて、上達する感覚を実感する
だから、勉強に「経験値」の概念を持ち込みます。
例えば、私はDUO3.0という英文帳を音読していました。
音読というのは、ひたすら英文を口に出して読むのですが、単純なだけに飽きやすい。
そこで、その英文の一つ一つに『正』の字で回数を記録していました。
地道な作業を何回繰り返したか、っていうのをちゃんと記録しておく。
そうすると、「ちょっと以前よりつっかえず読めた」「意味がスパッと分かった」という、
頭の中でレベルアップのファンファーレが鳴る瞬間を味わえるんです。
そうすると不思議なもので、他者から見ると単純極まりなく、苦痛極まりなく見えることですら、楽しく感じられて続けることができるんです。コツは「これだけ回数をこなした」というものをカウントしていくこと。
で、それは自己満足かというと、決してそうとは言い切れない。
量をこなすと、どこかの地点で「質」に転化する。
どこかで起こるかはハッキリ明言できないけど、一つ言えるのは一定の努力量がないと、この現象が起こらない、ということです。
繰り返していくと、センサーが敏感になって「あ、ここ出来るようになった」と分かる。
この小さな成功体験の蓄積が、表向き「質になって現れる」ということなんです。
勉強がどうしても苦手な人は「積み上げる」部分に注目して記録することを習慣づけてみたらいかがでしょうか。
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