この記事では、2020年4月17日に放送された『たまむすびTOKYOもん』のハチ公像特集が面白かったので、内容をまとめてみました。
解説は白根記念渋谷区郷土博物館・文学館の学芸員、松井圭太さん。
資料の調査や、ハチやハチ公像を知る100人以上に聞き取りを行い、ハチ公の展覧会も行った
「世界で一番ハチ公に詳しい人」と番組で紹介されました。
そもそも、ハチ公ってどんな犬?
ハチは1923年11月生まれ。犬種は秋田犬です。
翌1924年1月に東京帝国大学の上野英三郎教授の家にもらわれていきました。
ところがその一年後に飼い主の上野教授が脳溢血で急死。
意外にも、ハチ公と上野教授が暮らしたのは1年ほどということになります。
しかしハチは飼い主を転々としながら、亡き上野教授を待つように渋谷駅に毎日通いました。
最後の飼い主は、上野教授の知り合いの植木職人、小林菊三郎さん。
生前の上野教授に恩義を感じて、ハチを引き取りました。
それからは、亡くなるまで小林さんに面倒を見てもらっていたそうです。
新聞記事で紹介され、全国区で人気爆発!!
それまでは渋谷駅界隈でひっそりと知られた存在だったハチ公ですが、
1932年の東京朝日新聞に『いとしや老犬物語』として紹介されるや、ハチ公人気が大爆発!
翌日から、ハチ公の頭をなでるために小学生が列をなし
全国から、「ハチ公に旨いものでも」との手紙とカンパが渋谷駅に殺到。当時の渋谷駅長は対応におおわらわになったそうです。
また、当時は「ハチ公丼」「ハチ公せんべい」などの関連グッズも発売され、空前のハチ公ブームが起こり、
ハチ公の肉声入りレコードも登場!
そして1934年4月21日、ついに初代ハチ公像が建てられました。
その一年後、ハチは渋谷駅で息を引き取りました。
最期はフィラリアに侵され体力も衰え、渋谷駅に設置された特製のベッドに泊まり込むようになっていたそうです。
ハチのお通夜は渋谷駅2階で行われ、3000人が参列。
葬儀は、当時の新聞でも大々的に取り上げられ
飼い主だった上野教授が眠る青山墓地で、お坊さんが十数人が来て執り行われ
上野教授のお墓の隣に墓が建てられる壮大なものだったそうです。
今の忠犬ハチ公像は、2代目
ところで、ハチの生前に作られた像は2代目、ということはご存知でしょうか。
太平洋戦争の際、初代ハチ公像も供出され、溶かされて軍用に使われました。
戦後すぐに再建の声が高まり、実際に再建されたのは昭和23年8月15日。
初代ハチ公像を造った安藤照(てる)さんの息子、安藤士(たけし)さんが制作を手がけました。
しかし、時代は戦後まもなくで、物資は乏しく…
安藤士さんは、材料の銅を
父親の代表作といわれる銅像『大空に』という作品を溶かして調達することにしたのです。
「おやじ、すまん」とわびながら作品を溶かしたもので
2代目ハチ公像を制作したそうです。
そのため、安藤士さんはこの2代目を「父と自分、親子2代の作品である」と生前語っていたそうです。
ハチ公の子孫は存在するか?
ハチ公の子孫はいるのか?
これは気になるところではあるのですが、子孫が仮にいたとしても当時は餌となる食料も乏しく
秋田県は軍用犬として使われていたことが多かったため、子孫は絶滅しているだろうと松井さんは話しています。
なお、ハチ公の資料は松井さんが勤務している白根記念渋谷区郷土博物館・文学館に展示されているそうです。
2020年4月19日現在は新型コロナウイルスのため休館中ですが、ご興味のある方はぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
ちなみに、このCDにはハチ公の肉声が収録されています。
テレビでハチ公を見た人を探した話
テレビ番組『水曜日のダウンタウン』で話題になった
「本物のハチ公を見たことがある人、まだギリこの世にいる説」が面白かったので、忘備録代わりに記録して追加します。
2022年4月の放送をさかのぼること87年。
…昭和10年(1935年)にハチ公が亡くなっているので、まだ90代ならギリ、いるんじゃないかという企画でしたが、これが抜群に面白い。
本物のハチ公は「焼き鳥」目当てで駅に通ってた!?
捜査は最初、渋谷駅周辺に残る古い店を訪ね歩くところから始まるのですが、もうすでに実際に見た人たちは亡くなられていて、おばあさんやお父さんなどからの「また聞き」でした。
しかし、そこで「当時の渋谷は焼き鳥屋の屋台が多くて、酔客からおこぼれをもらってた。電車が終わると屋台も店じまいだから、ハチ公も帰る。毎日それを繰り返していた」と話していた、と証言しています。
これ、死後にハチ公の検死をした獣医も「胃の中から、焼き鳥の串が見つかった」と証言していまして、どうも結構ゴチになっていたみたいですね。
ハチ公が渋谷駅に通ったのは元主人を待っていた…というのは、
ハチ公を紹介した新聞記事で勝手に作ったものなんで(当然ですがハチ公しゃべれないから何考えていたかは不明)
まぁ、それに乗っかって忠義を称揚するために利用されちゃったという一面もあります。
当時作られたハチ公の肉声レコード(鳴き声だけじゃ全然尺が足りないので、ナレーションの解説付き)は当時の文部省推奨だったというのもあるでしょうね。
ちなみに、このレコードの鳴き声から、専門家は「フィラリア症にかかっている」と分かるそう。
専門家って、すごいですよね。
続々登場!「本物のハチ公を見た人」の証言
で、番組が進むごとに、出てくる出てくる!証言者!!
昭和6(1931)年、ハチ公が亡くなる4年前に生まれた女性は、父親が営んでいた渋谷の店先で
「ハチ公が通るよ!」という声で表に出たら、結構大きな犬が店先の道をスーッと通っていた
と証言。
また、大正15(1926)年生まれの女性は山手線の車窓から、渋谷駅周辺でハチ公が道を渡るのを目撃したといいます。
道路を、左を見て、右をみてと確認して渡っていた
また、昭和3(1928年)生まれの女性は
改札のところをウロウロしていたハチ公の様子を目撃。
改札の前をじっとしてないで、ウロウロしていた。おとなしい犬でみんな頭をなでていた。あまりきれいじゃなかった。
まぁ、このハチ公、有名になる前に何回も野犬狩りで捕まってるんですよね。
飼い犬だったから首輪をしてたんだけど、犬の首輪って「安産」のお守りだから誰かが持って行っちゃうんです。
だから薄汚い首輪をしてない犬というと野犬狩りの対象になってしまった、というわけ。
ちなみに、新聞記事(前掲)が出る前の話です。
同じく昭和3年生まれの男性は、当時大崎に住んでいて、渋谷駅にいたハチ公の頭を撫でていたと証言。それに加え、
「ハチ公を母が飼っていた」という人に偶然会い、
ハチ公の右耳がなぜ、折れているかの話を教えてもらったと語っていました。
それによると…ハチが他の犬とケンカして帰って来た。
先っちょの方が切れていたので、そのお母さんが縫って上げたんだけど、上手に縫えなくて耳がピンとたった元の形に戻らなかった…とのこと。
あの、ドクター中松もハチ公を見ていた
ここまでは一般人なんで、名前は伏せておりましたが、実はもう一人有名人で目撃者がいました。
発明家?のドクター中松さんです。
まぁ、この方良くしゃべる(笑)。
どうでもいい話ですが、商品先物の営業という仕事をやっていた友人が、ドクター中松に営業行ったら、
「ドクター中松とウナギを食う会」に参加しないか?と逆営業をかけられた…と話していました。
ソイツも結構強引に話をもっていくアクの強い性格なんですが、彼を上回る押しのつよさ(笑)。
関係ない話に横道に逸れようとするのを何とかなだめて、証言してもらったみたいです。
前足を投げ出して寝そべっていた。ワンともいわないおとなしい犬
と証言してましたね。
番組よりも、ちょっと長めの「ハチ公出演作」を見よう
番組では実写のハチ公出演映画として、後の東宝が昭和9年に制作した『あるぷす大将』が紹介されていました。
この作品はどうやら「生きたハチ公が見れる映画」として認知されているようで、YouTubeにも以前テレビで放送されたものがアップされていました。
ちなみに上の映像では「ハチ公が焼き鳥をもらってた話」に出た当時の渋谷駅前の様子もバッチリ映り込んでおります(笑)。
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