昔の自分の投稿から、東日本大震災を振り返る

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早いもので、東日本大震災から10年が過ぎました。

かつてあの時何考えてたかが知りたくなって昔の投稿を掘ってみました。

この投稿は震災の一年後に書いた旧ブログの投稿を再編集し、冗長な文を改訂したものです。

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カイロスとしての『東日本大震災』

ギリシャ語では時間を表す言葉が2つある。

クロノスとカイロスだ。

クロノス時間とは、過去から未来へと一定速度、一定方向で機械的に流れる時間。

一方でカイロス時間は、速度が変わったり、繰り返したり、逆流したり止まったりする、人間の内的時間を表す。

2011年3月11日午後2時46分から実家へたどり着くまでの午後9時50分までは、僕にとってはウンザリするほどゆっくりと、不気味に流れたカイロス時間を経験した。

それは決して大津波に飲み込まれるような致命的かつ絶望的なものではなかったが、大地震の尻尾に触れた程度の埼玉県で僕は何を見て、人々はどう行動したか。

それを数日来、記憶を掘り起こしてノートに書き付けていた。今日はそれを書いていこうと思う。

2011年3月11日、午後2時46分

あの時、僕は産業道路(県道35号線)を通り、上り方面に車を走らせていた。

いつも車内で聞いている文化放送『大竹まことゴールデンラジオ』にはイッセイ尾形さんがゲスト。

トークが終わり舌っ足らずな室井佑月がイベントの告知を始めた時、大竹まことさんが告知をさえぎった。

JR土呂駅そばの陸橋手前にちょうど差し掛かったところで揺れに気付いて車を左肩に寄せた。

近くの材木屋に立て掛けてある板材が、とめてあるワイヤーを振り切ろうと暴れ出した。

電柱も呼応するように揺れ、電線が波立つ。目前の陸橋も心なしか、たわんで見える。

ラジオアナウンスで、震度計が徐々に高い数値を示していくのを知る。

普段の地震ならそろそろ収まってもいいころなのに、いっかな揺れは収まらず、体感的には10分ぐらい揺れ続けていたような、終わりのない揺れがいつまでも続いていた。

地震には冷静な方だが、さすがにこの時は「僕は死ぬのか」という考えが頭をよぎった。

僕は冷静な太田英明アナの声で、かろうじて冷静さをつなぎとめていた。

番組はそのまま中断、緊急報道につながった。

目の前に現れた『非日常』

揺れが収まった。僕は目前の陸橋が無事そうだと判断し、陸橋を渡る。

近くのセブンイレブンに入り、少し冷静になろうと車を降りたら、膝からガクッと崩れ落ちた。

地震を怖い、と感じたのは久しぶりだ。

店内に入ると、棚から商品が落ちて床に散らばっていた。冷たいブラックコーヒーを飲もうと冷蔵庫に近づくと、右手奥の酒の棚の下に赤い水溜りが見えた。

ワインの瓶が床に落ち、砕け散ったあとだった。店員はほうきとチリトリを使い、水溜りを片付けていた。

缶コーヒーを買い、車に乗る。乗ってからもちょっと車外を見回す。

缶コーヒーを飲みながら、土呂駅南の踏切を渡り、植竹小学校の前を通る。児童が、避難訓練のように並び、帰宅の体勢を整えていた。

小学生のころ、何回かやった避難訓練のようだった。ちょっと違うのが、ふざけている子はいないこと。静かに並ぶ姿に、児童たちの緊張感が見えた。

駐車場に車を入れ、踏切を挟んで向かい側の事務所へ。ここまでで40分位かかった。

3階の事務所は鉄の扉が開け放されていた。中に入ると経理の人のホッとした表情が目に入る。

室内を見渡すと、書類の詰まったキャビネが5センチぐらい、動いていた。テレビをつけると、例の大津波が映し出された。

しかし、テレビに釘付けになってるわけにもいかない。

とりあえず、経理の人と二人で手分けし、外出中の社員の安否確認を行なう。携帯電話は全くつながらない。それでもしつこくやっていると、ようやくつながった。

まず社長の無事を確認し、経理の人につなぐ。

ウチの経理さんが社長に直帰の許可を貰う。出先で安否の確認が取れ次第、自宅に帰宅してもらう為に。

各社員の携帯に電話をする。全くつながらない。少しづつ確認を取る事ができたが最後に連絡の取れない人が一人か二人いた。

結局、彼らが会社まで戻ってくるまで事務所で電話をかけ続けた。

戻ってきた人間もそれぞれ社用車で自宅へ戻る段取りをとり、僕は車を持っていない経理の人を乗せて会社を出た。

それが午後5時過ぎだった。

片道30分の道を5時間かけて帰宅

旧中仙道(県道57号線)を北上した。

スーツ姿の会社員が歩いて北上しているのが見える。

車列は渋滞という表現では生易しい、まるで這うような、ゆっくりとした動きだった。まずは経理の人を北本に送る。

旧中仙道は電気が通じているところ、いないところが交互にあった。

信号の効かない場所には警察が手信号で交通整理をしていた。だが、全ての交差点に立てるわけではない。

自分の部屋のある地区が近づいてきたが停電している様子だった。

もうちょっと走ると両親の住む地区がある。ここは電気が通っているようだった。

更に進むと実家を過ぎたあたりで再び停電。カーステレオはラジオをつけっぱなしにして情報を拾う努力をする。

北本陸橋の交差点が再び、止まったように動かなくなった。

交通整理が立たず、信号の死んだ4つ角は、ドライバーが自主的に譲り合い右折、左折を受け入れながら慎重に進まざるを得ない。

JR北本駅の東口前を抜ける。

通りに入り最寄りで経理を下ろす。これが8時ごろだったと記憶している。

とにもかくにも、同乗者を無事に送り届けて思わず安堵のため息が出た。

そのまま17号に向かうとここも信号が死んでいて、旧中仙道よりも早いスピードで車が流れている。

横断は出来そうにないのでとりあえず左折し、鴻巣の天神交差点を左折。

旧中仙道に出て左折して来た道を引き返す。先ほどの北本陸橋は相変わらず。

のろのろ進み9時50分ぐらいに、両親の住む地区に到着した。夕飯を出され、初めて腹が減っていたことを思い出した。

テレビには、無節操に津波の映像ばかりが流れていて、もうウンザリだった。3月11日は実家で一泊する事にした。

出社して高崎線で帰れたが…

自宅のアパートは食器をむき出しにしたまま出たので、床に落ちて粉々になっているのでは、家具が倒れて足の踏み場があるかどうか、加えて昨夜、この地区は真っ暗。

電力が復旧しているかどうか分からない。懐中電灯も持たず自宅に入るのをためらわれた。

そこで明るくなるのを待って実家を出て、隣町の自宅アパートへ。

ビクビクしながら自宅のドアを開けると、昨日出たときと同じような散らかり方。

とりあえず、家具の倒壊も粉々の皿もなし。

パソコンを起動し、鉄道の運行状況をチェックすると高崎線が動き始めたようなので車を会社に返すために事務所に向かった。

最寄り駅から大宮に向かい、電車待ちをしていると東京で働いている弟から電車は動いているかメールが入った。

動いている、とメールを送る。

ところが後で聞いたところ、自分の乗っていた高崎線は運休となったらしい。

つまりは自分の乗っていたのがその日の最終電車だった。僕は運が良かったのだ。

後で聞くと弟は京浜東北線で大宮まで来た後、父親に車で拾ってもらったそうだ。

やっとの思いで家に戻るも、以降の記憶はほとんどない。

今回のコロナと同じ…デマと不安に駆られて食料品を買い漁る人々

次にはっきり覚えているのはその次の日。野菜がなくなったので近くにある業務スーパーに行った。

店内は想像以上の長蛇の列だった。ほとんどのお客さんが米の袋、インスタントラーメン、スパゲッティ、うどん、そば等の乾麺を求めていた。

とあるおばあさんなど、10キロの米袋を3袋入れた買い物籠を、腕をプルプルさせながら持っている。

とりあえず、地震を乗り越えるといかに自分が生き延びるかというごくプリミティブな生存本能が働くらしい。

僕自身はなにも買わずに家に帰った。

なぜなら、この品切れは一時的なものだという確信があったからだ。

東日本は確かに大ダメージを受けたが、西日本は無傷だ。そこから足りない物資は十分供給できる。

特にコメは近年コメ離れが叫ばれ、たくわえ君の名前で古米がPRされている位だからコメが足りなくなることはない。

あとは千葉で天然ガスのタンクが炎上し、有毒ガスが発生と当時やってたmixiで流れてきた。天然ガスは燃えても炭酸ガスと水にしかならない。

それを冷静に指摘したら送ってきた人間から「せっかく善意で教えてるのに」と逆に怒られた。

10年後から振り返ると…

実際、一時的なもので間もなく品切れも解消された。

福島第一の建屋がぶっ飛んだ時は、「水道水が放射能に汚染された」とミネラルウォーターが売り切れた。その後、ガソリン不足、計画停電と色々あった。

あの時も不安と恐怖に駆られて、全く合理的でない行動をとる人たちがいた。

残念ながら、10年後の今でも似たような行動に走る人は後を絶たない。記憶に新しいところではコロナ騒ぎでマスクが品薄になり、トイレットペーパーが棚から消えた。

そうかと思うと、自発的に義援金の動きが起こったり、ボランティアとして被災地に幾度となく足を運んだ人も私は知っている。

つまるところ、このような試練は人の性根を試すものでもある、と言える。

省みて、僕はキチンと今を処しているであろうか…今でも何かあるたびに思い返すのである。

 

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