連休中は自宅に籠って、川口松太郎さんの『一休さんの門』を読みふけっています。
十年ぶりくらいに読んでいますが、何度読んでも面白い。
自分の経験が読書を面白くしている?
いや、むしろ今読んでいると「あ、こういう事あるなぁ」と自分の経験を重ねながら読めるので、
おのずから自分の行いに照らしながら読めるようになった、そこにまた書物の面白さを感じています。
以前、落語家の立川志の輔師匠が
「落語は年寄りが聴くものだと思っている人が多いみたいだけど、いっぱい失敗したり、冷や汗をかいて苦労した経験があればあるほど落語というものは面白くなる」
と話していましたが、読書も同じことが言えそうです。
法話から、自分の経験を省みる
『一休さん~』だと、昔はそんなもんかぁ…としか軽く考えていなかった仏法の法話なんかが妙に染みます。
小説の中盤で、僧侶の娘芳子が一休さんに相談します。
「父は船に乗っているとき、諍い事で湖に突き落とされ未だに亡骸も上がらない。仇をうちたい」と。
一休さんは「仇をうつ、というのは自己満足なだけ」と諭します。
「お前も坊主の娘なら六道は知っているだろう」
「よくは存じませんが天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道でございましょうか」
「その通りだ。人間の行くべき道を六つに分けているのだが今の芳子は修羅の道に迷いぬいている。父の霊を慰めようとして修羅道に迷うのは愚かでもあり、あの世の父も喜びはしなかろう。仇を討つのも己の哀れな満足に過ぎぬ。本願寺の祖師親鸞上人は他利精神を教えて凡人成仏を説いていらっしゃる。己をむなしくして他人の利益を思う。芳子の迷いは己れ一身の小さな復讐にすぎぬ」(下巻133ページ)
もちろん、私は親を殺された経験などは無いわけですが、
人を恨んだり、憎んでしまう経験はあるわけです。
そういうものが、読んでいるそばからヒャーヒャー噴き出してきて、あたかも自分が一休さんに諭されるような、妙な気分になるのです。
経験が読書に乗ってくるとますます面白い
私、昔は大藪春彦や大沢在昌さんの小説を愛読してきました、派手でアクションがある文章を好んでいたのだと思います。
今みたいに自分を省みることはなかったと思うのですが、
私自身歳を重ねて、
取り返しのつかない失敗や、人との出会いと別れなんかを積み重ねて来たものが
知らぬ間に少しずつ増えて来たようです。
これがもしかしたら、歳を取って成熟するということなのかな?
最近はそう感じています。
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