今朝(2020年3月30日)、志村けんさん死去、という衝撃のニュースが日本中を流れました。
私は1978年生まれで、物心ついた頃には「♪カーラース、なぜ鳴くの?カラスの勝手でしょ?」とか歌ってた世代で、
ニュース聞いてホント、呆然としました。
70歳というのも若すぎる。まだまだ笑わせて欲しかった方でした、と心からお悔やみを申し上げます。
今回は、以前読んだ本や、聞いたインタビューの中から、志村けんさんのエピソードを紹介したいと思います。
芸名の由来は父親の名前
本名は志村康徳さんといいます。芸名の「けん」の由来は、お父さんの名前「憲司」から。
ちなみに、お父さんは学校の校長を務めるほど超真面目人間だったそうですが、
そのお父さんがテレビのお笑いでゲラゲラする姿を見て
「お笑いってスゴい!」と思ったのがこの道に進むきっかけだったとか。
ちなみに憲司さんは、交通事故が原因で脳の病気になり、
脳内出血が原因の認知症状が進んでしまい、ドリフターズへの道に進む前に亡くなっています。
その時の父親の姿をモデルにしたのが、志村さんの名人芸であるトンチンカンなおじいちゃん、おばあちゃんネタだったそうです。
独立して持った冠番組が半年足らずで打ち切りに…
ドリフターズの付き人時代から、コメディアン路線を目指してた志村さんは、付き人同士で『マック・ボンボン』を結成。
もっとも最初は『チャーミングコンビ』という名前だったのですが、
いかりや長介さんから「ちっともチャーミングじゃねぇじゃねーか!」と却下されたそうです。
すぐに名前は売れ始め、自身の看板番組ギンギラ・ボンボンを持つようになりました。
前の同時間帯番組は伝説のバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』ですから、
どれだけ期待されてたか分かろう、というもの。
しかし、持ちネタが少ないことが仇になり、番組は半年経たずに打ち切り。
それでもコメディへの意欲は失わず、出戻りで付き人になった、ドリフターズのリーダーいかりや長介さんに、ネタ作りをしては意見を求めていたそうです。
「付き人は何人もいたが、そんな奴志村だけだった」といかりやさんは後年語っていました。
窮余の策だった『東村山音頭』
そんな、付き人らしからぬ熱心さが認められ荒井注さんの脱退に伴い、ドリフのメンバーに昇格した志村さん。
しかし、荒井さんの抜けた穴は大きく、新メンバーの志村さんは大苦戦。
全然ウケない。
志村さん加入後、『8時だョ、全員集合』の視聴率も低調に。
そこで、番組は以前の傑作選を再放送してしのぎつつ、メンバーはネタの練り直しをしたそうです。
そんな時、息抜きのマージャンをしている時に志村さんが口ずさんでいたのが『東村山音頭』。
その歌詞が妙に印象に残ったいかりやさんが、3丁目の歌を追加し、
もはや歌ではなくシャウトな1丁目は志村さんが作り、聖歌隊コントの締めに使ったら見事にバカ受け!!
メンバーチェンジの低迷期を見事に乗り切りました。
志村さん発のアイデア①
志村さんのアイデアの一つに「オナラの音」があります。
これは伊集院光さんのラジオで話していたのですが、以前のコントではオナラの音は、ラッパのプァ〜、という音を使っていました。
かねてからレコード収集を趣味にしていた志村さんが、
ある日レコード店の店先で見つけたのが「オナラの音を収録したレコード」。
様々な種類のオナラの音を専門家が録音した、というなんの目的で作られたかが分からない「珍盤」なのですが…
こりゃいい、と早速購入してコントに使ったところバカ受け!
それ以来、あのリアルな「ブッ」「ブリブリ〜」というリアルな音がコントで定着したそうです。
志村さん発のアイデア②
ジャンケンをする時「最初はグー!」というのも志村さんのアイデア。
私はあまりに当たり前すぎて、意識してませんでしたが、西部劇コントでよく使われていた「最初はグー!」が子供たちに定着。
ちなみにフルバージョンは「最初はグー✊いかりやチョー✌️すけ頭がパー✋正義はカツ✊ジャンケンポン!」です。
もはや全員集合を見たことない世代でも知る定番となりました。
言葉なんて関係なし!在日米軍も大ファン
これはご自身の自伝『変なおじさん』より
志村さんがある時、在日米軍の兵士から「お前アメリカ行けよ!仲間はみんな大ファンだぞ!!」と言われたとか。
もちろん、向こうは日本語はあまりわかりません。
しかし、志村さんの笑いってなんで、アメリカ人にも受けるのか?
女優の太地喜和子さんは志村さん演じる「ひとみおばあさん」のファンで、「志村さんのお婆ちゃんってそれっぽく見えるでしょ?そこが志村さんのすごいところなのよ」、
と生前よく話していました。
偉くなったらオシマイ、だから一生バカをやる!
志村さんは
『バカ殿』で共演していた東八郎さんに「いい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのでしょうか?」と尋ねたことがあるそうです。
すると、東さんからから
「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」
と言われたとか。
これに感心した志村さんは、生涯このスタンスを崩さずにコメディアン人生を走り切りました。
泣かすも笑わすも自由自在!!
『志村けんのだいじょうぶだぁ』は短いコントやネタを繋ぐ構成になっていました。
しかし、突然笑いの一切ない「シリアス無言劇」が予告なく挟まれることがありました。
オカリナの悲しげなメロディが流れながら、セリフは一切なく、オチもなし。
当時子どもの私はポカン…たまたま一緒に見てたお袋が涙目になってた…
後でコレが『伊集院光 日曜日の秘密基地』の情報捜査コーナーで明らかになったところによると…
飲みの席で、「泣かせる」と「笑わせる」のどちらが難しいか?となった時、志村さんは笑わせる方だ!と断言。
じゃ、今度泣かせられるかどうか番組でやってみよう、とな企画されたのがこのコーナーだったそうです…
ただ、何回かやってたら視聴者も慣れてくるので、
途中までシリアス風にしておいて、
オチに変なおじさんが登場!という「視聴者の裏をかく」パターンも登場しました。
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