昭和天皇と御製~31文字に秘められたエピソード

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この記事では、昭和天皇と御製(和歌)にまつわるアレコレをまとめていきます。

昭和天皇(1901~1989)

短歌の心得のないブログ主ですが、以前購入した「天皇さまの還暦」(入江相政著)などの資料から

御製に込められたエピソードを掘っていこうかなと思っています。

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「自分の短歌は本当にまずい」

まず、名文家としてならした入江侍従長の話によると

昭和天皇が和歌を始められたのは皇太子時代のこと、だそうです。

そして、生涯で1万首の御製を残したといいます。相当、修練を積んだと言えるのではないでしょうか。

ところが、入江さん曰く「陛下は短歌が上手いなんて思ったことはなく、逆に大変にまずいと思っていらっしゃる」と書き残しています。

その一方で「御製を掲載させてほしい」という依頼も結構あった模様で

1首に2時間でも、3時間でもお取組みになっていたそう。

もちろん、公務を全部こなしてからです。

そんなわけで、あの尋常じゃなく我慢強い陛下が

「そう方々から頼まれると、ヒロポンの注射でもしなくては」と入江さんに語っています。

もちろん当時の文学者がヒロポン常用者が多かったことを知っての、ご冗談ですが。

それでは、実際に表に出る一首はどのようにして出来上がるのでしょうか。

記事で分かった、「御製のできるまで」

表に出る御製は、何回も推敲を重ねるだけでなく、歌人のアドバイスを仰いでいたようです。

それをうかがわせる記事が、2019年1月7日の朝日新聞に掲載された「昭和天皇の歌、磨いた跡見つかる」です。

この記事によると、

朝日新聞が先日報じた昭和天皇のメモ8枚と罫紙29枚に加え、

今回徳川(義寛、当時侍従長)氏の毛筆の書が確認されたことで、

昭和天皇が心に浮かんだことをまずメモに書き留め、それを罫紙で推敲、

側近が清書して相談役の助言を受けて完成させる

――という歌づくりの流れが具体的に見えてきた。

(当時相談役をつとめた)岡野(弘彦)さんによると、当時、側近は原則、天皇直筆の原稿ではなく、側近自身が毛筆で写し取ったものを持参してきていたという。

(中略)

たとえば、昭和天皇の直筆の罫紙にある歌

「うれはしき 病となりし 弟を おもひかくして なすにゆきたり」。

86年夏に肺がんとわかった弟・高松宮を思う歌だが、

毛筆の書では「おもひかくして」の脇に朱で「(おもひつつひめて)」「秘」と書き込まれている。

朱は清書を見た相談役からの助言とみられ、歌集「おほうなばら」で公表された際には「おもひつつ秘めて」となっていた。

また、86年4月の在位60年記念式典の際の歌

「國民の 祝ひをうけて うれしきも ふりかへりみれば はづかしきかな」は、毛筆の書では「はつかしき」の脇に朱で「おもはゆき」と書き込みがあった。

(朝日新聞、2019年1月7日号)

徳川侍従長が筆写した短歌に朱を入れたのは、

ご本人の筆に修正を入れるのがはばかられたせいでしょうか。

この記事では、修正前の方が感情がストレートに表されていると報道していますが

私も修正前の短歌は、なんとなく現代語のニュアンスが入っていると感じる気がします。

どんな内容を詠んでいたか?

終戦翌年の歌会始で披露された

「降り積もる 深雪に耐えて 色変えぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ」は

戦後、衣食に事欠く生活を送りながらも、誇りを忘れずに強く歩むことを願った一首です。

戦後の御巡幸では、各地で会った人々を詠む御製が当然多く

1947(昭和22)年に常磐炭鉱ご訪問の時は

「暑さつよき 磐城の里の 炭山に 働く人を 雄々しとぞ見し」

1949(昭和24)年にご巡幸で訪れた佐賀県の因通寺洗心寮では、

両親を失った子供たちが、健気に真っすぐ生きようとするさまに感銘を受けて

「みほとけの 教守りて すくすくと 生い育つべき 子らに幸あれ」と詠まれたりしました

また湯川秀樹博士のノーベル賞受賞(1947年)の一報に

「新聞の しらせを今朝は 見て嬉し 湯川博士は ノーベル賞を得つ」という時事ネタも登場します。

また、特に珍しいのは

「雨にけぶる 神島を 見て紀伊の国の 生みし南方 熊楠を思ふ」という

1928(昭和3)年に南方熊楠のご進講を受けた、思い出を詠んだ一首で、御製では唯一、特定人物(南方熊楠)がフルネームで登場します。

和歌にも表れる「学者昭和天皇」

また、和歌においても実証性を重んじるのが昭和天皇の律儀なところで

これは、中村賢二郎侍従の「吹上の季節」にも出てきます。

「我が庭の 竹の林に みごとなる すぎしはのこる まつうめみえぬ」

という一首を推敲していた時、

実際に皇居の竹林に松と梅はないか確認してくれ、というのです。

「4人の兄弟のうち、秩父宮(若松)と高松宮(若梅)は亡くなって、昭和天皇(若竹)と三笠宮(若杉)が生きている」

という意味の「お印」をかけた短歌だったのですが、実際には、松と梅があった模様で、

「梅と松の しるしの弟 はやきえて 竹と杉のこり 世のあはれしる」

と手直しされた、と書かれています。

最後に

昭和天皇は御製を通じて世の中にメッセージを込める気持ちが大変強かったご様子です。

公開される短歌というのは、言ってみれば国民への天皇からのメッセージとしてとらえられたからこそ

「ヒロポンを注射でも」と冗談を言いながらも

多忙を極める公務の合間をぬって、せっせとお詠みになられていたようです。

詠まれた短歌の数で言うと、明治天皇の9万3千首と比べると10分の1になりますが

そこには純粋な楽しみというより、

滅多に接する機会のない国民に、自分の心を間違いなく伝えたいという

天皇としての願いが強く伝わってくる気がします。

【参考文献】

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